<クロバー牛乳の派生〜分裂した商標>
「存続会社」はクロバー印、「第二会社」は雪印…戦後、GHQは財閥解体、巨大独占企業の分割を指令。日本政府は過度経済力集中排除法(集排法)を公布し、各分野における寡占の解消に乗り出す。雪印乳業の前身、北海道酪農協同(株)は、バターとチーズの市場シェアが極めて高く、昭和22年、この指定を喰らった。
分割決定なら弱体化は必至。全社を挙げて指定解除運動を展開も、競合する明治乳業と森永食糧工業(森永乳業)は猛反対。戦時統制下の強権発動で、両社所有工場の一部が北海道酪農協同に併合された経緯もあり、旧資産の返還および解体は当然と主張。集排法から逃れたい雪印を大いに牽制した。
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画像上:雪印乳業と北海道バターの分割告知広告(昭和25年)…両社の住所・電話番号はまだ一緒。のち北海道バターの本社は札幌市北三条西へ、同・東京事務所が千代田区神田司町に移った。 |
ドロドロした思惑が交錯するなか事態は急転直下、時の法務総裁が「雪印の重役に公職追放者がいる」旨を伝え辞職勧告を出す。北海道酪農協同は会長以下7重役が辞任。昭和25年、抵抗むなしく組織は二分割されてしまった。
結果は「存続会社」北海道バター(株)と、「第二会社」雪印乳業(株)の設立。また、明治・森永に対しそれぞれ北海道の一工場を譲渡の仕儀。社名の通り「雪印」の商標は「第二会社」が所有。「存続会社」はブランディングに乏しい門出を強いられる。
◆クロバー牛乳の誕生とクロバー乳業への改称
クロバー印の出自・展開は前頁<1>にまとめた。北海道バター(株)発足当初は、消費者に(かろうじて)馴染みのある関西・近畿圏で、バターとチーズを製造販売。市乳事業への着手は昭和29年のこと。
きっかけは「いづみ牛乳」を商っていた大阪府酪農業協同組合への出資参画。同組合は出資金を元手に関西酪農協同(株)を設立、北海道バターの提携に応じて「いづみ」銘を廃止。日本初となる「クロバー牛乳」の受託生産に臨む。
ところが僅か一年後の昭和30年、関西酪農協同は完全なる独立経営を希望して「クロバー」銘の請け負いを返上、新ブランドを立ち上げた。これが現在の毎日牛乳。流れだけ追うと、ヒドイちゃぶ台返しではある。
提携を打ち切られた北海道バターは急遽、自力展開を計画。まず大阪市西淀川区に既設の歌島工場へ市乳処理ラインを増設し、「クロバー牛乳」を暫定再開。翌31年、都島区に新工場を建設(のち雪印が継承、同・大阪工場となる⇒集団食中毒事件)。その後は宣伝・広告を怒涛の乱れ打ち、ブランド認知は飛躍的に向上していった。
さらに中小メーカーの買収・提携を推進、営業圏は四国・東北に伸びる。秋田ミルクプラント(秋田市酪農農協)、瀧野乳業(有)(兵庫県)、岡山県北部酪農協、水島酪農協(水島牛乳)、香川郡畜産農協連合会などが、次々とクロバー傘下入り。マークが充分浸透の機を見て、昭和32年にクロバー乳業(株)へ改称。社名と商標が一致した。
◆悲願達成・雪印との再合流
不承不承に分割を受けた雪印は、水面下で生き別れ両社の早期合流を模索。昭和27年9月にはその方針を固めていた。30年、集排法は役割を終えて廃止。涙の再会を期して、今度は両社挙げての合併推進運動を展開する。
実現すれば、集排法による分割会社の再統合という、初めてのケースだ。許認可は公正取引委員会が握っていた。両社は懸命に請願・街宣・ロビー活動を行うが…ここでまたしても明治・森永連合が立ちはだかる。
公正取引委員会の公聴会で、明治・森永はクロバー・雪印の合併に異を唱え、市場の寡占を問題視。独禁法に基づく違反申告書を提出して、強硬に反対しまくった。いっぽう農協や生産者団体は合併を積極支持・援護した。
昭和33年、委員会の最終現地調査を経て、クロバー乳業(株)と雪印乳業(株)は統合承認を獲得。両社は新しい雪印乳業(株)として再スタートを切るに至った。…それからしばらくして、「クロバー印」は再度の眠りにつくこととなる。
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