<雪印製品のいろいろ>

雪印の会社史は経営・業界環境の解説が超充実のいっぽう、個別商品については淡泊で、それほど詳しい言及がない。明治・森永の社史だとコーヒーやフルーツ、加工乳の展開に、ささやかな独立項を設けているのだが…。

雪印乳業・工場見学のしおり/乳製品一覧(昭和40年代初期)
画像上:雪印乳業・工場見学のしおり/乳製品一覧(昭和40年代初期)

◆フルーツ牛乳の発売(昭和33年度)

当初はフルーツ牛乳の専用瓶装を投入(下段画像参照)。昭和40年頃に白牛乳やコーヒーと同じビンに統合した。フルーツ登場以前にも、同系の乳飲料「オレンジミルク」(王冠ジュース瓶仕様)があったという。

雪印乳業・工場見学のしおり/乳製品一覧(昭和30年代中期〜後期)
画像上:雪印乳業・工場見学のしおり/乳製品一覧(昭和30年代中期〜後期)

◆コーヒー牛乳の発売(昭和30年度)

王冠ジュース瓶仕様の「コーヒーミルク」が元祖。32年度「雪印コーヒー牛乳」(下段中吊り広告)の製造を開始。地域によっては34年頃まで両方とも流通。細口瓶の乳飲料は昭和初期〜戦後の馴染みだが、現行の広口瓶普及で激減した。

雪印コーヒー牛乳の電車中吊り広告(昭和40年)雪印ミネラル牛乳の雑誌広告(昭和44年)
画像左:雪印コーヒー牛乳の電車中吊り広告(昭和40年)、画像右:雪印ミネラル牛乳の雑誌広告(昭和44年)

◆雪印ミネラル牛乳の発売(昭和33〜34年頃?)

雪印の栄養強化系加工乳・第一弾は、昭和32年の「スーパー牛乳」。しかし後発「ミネラル牛乳」のほうが伸び、定番化。発売は33〜34年頃か、初代の瓶装は未見。37年、上掲広告の専用六角瓶(のち八角瓶)を採用する。

昭和45年の白牛乳200cc増量移行期に、汎用共通瓶に集約。48年「ファミリア牛乳」と改称、ミネラル銘は勇退。姉妹品スーパー牛乳もこの時期に廃止。「雪印つよい子牛乳」が出た54年頃には、ファミリア銘も姿を消した。

雪印パイン牛乳のポスター(昭和37年)雪印乳業・工場見学のしおり/牛乳類製品の一覧(昭和50年)
画像左:雪印パイン牛乳のポスター(昭和37年)、画像右:雪印乳業・工場見学のしおり/牛乳類製品の一覧(昭和50年)

◆雪印パイン牛乳(昭和37年)

コーヒー、フルーツ等の乳飲料は、売上好調で参入メーカーが増えるに従い、市場飽和・頭打ち。昭和30年代後期〜40年代の打開策に、毛色の変わった果実風味の乳(酸菌)飲料が続々と現れた。

パイン牛乳は昭和37年の発売。ポスト・フルーツ牛乳を狙うも撃沈。森永乳業は「森永マンダリン」なるアイテムを出している。定番作りは難しい。コーヒー、フルーツ後の定着は、いちご牛乳とバナナ・オレくらいか。この流れを継ぐのが主にコンビニ売りのミルク系500mlパック飲料。短期生産前提の一発芸的バリエーションが無数にある。

◆雪印の市場シェア

右表は雪印乳業の市場シェア(全国に占める生産比率・自社調べ)の変遷。創業事業のバター、チーズはシェアを下げつつも圧巻の数字。

出遅れた市乳は昭和30年代中期〜後期の成長とわかる。乳業の商材で現金化が最も早いのは飲用牛乳で、加工品と合わせれば鬼に金棒だ。

飲用乳 バターチーズ
昭和33年度 9%50% 80%
昭和42年度 19%65% 63%
昭和48年度 20%59% 62%
昭和55年度 17%46% 47%
平成3年度 19%35% 55%


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<カツモトとカツゲンを巡る話>

カツゲンは現在、雪印メグミルク「ソフトカツゲン」(500/1000ml・紙パック)として販売される乳酸菌飲料。流通エリア・北海道での認知度は高く、レトロ嗜好の波にも乗ってレモン牛乳りんご牛乳的なポジションを確立する。

日本ミルクコミュニティ時代に商品展開が活性化。いちご/青りんご/冬みかん/はっさく/メロン/バナナ/ぶどう/レモン/キウイ/シークヮーサー/ハスカップ…ほか、様々な風味の○○カツゲンが現れた。

もともとカツゲンは、ヤクルトと同じような小瓶の商品(40cc〜80cc)だった。雪印社史には「昭和31年に委託加工で発売、当初の販路は主に東北」とある(恐らく札幌酪農牛乳の受託製造・後述)。その後、全国都市に商うが、濃い目の味が全く受けず、北海道の販路だけが残った。独特なトックリ型小瓶は、昭和54年の紙パック移行まで道民に親しまれたという。

雪印カツゲンの小瓶と比較用の一合瓶(昭和30年代後期〜40年頃の瓶)雪印カツゲンの電車中吊り広告(昭和37年)
画像左:雪印カツゲン小瓶と比較用の一合瓶(昭和40年前後の流通)、画像右:雪印カツゲンの電車中吊り広告(昭和37年)

◆活素(カツモト)という乳酸菌飲料

話は遡って日中戦争の時代。派遣軍の将兵にチフス・コレラ・赤痢など(下痢をともなう)伝染病が蔓延、日本軍は頭を悩ませる。“支那市場”の視察に訪れた雪印(当時は北海道製酪販売組合連合会)会長は、軍部の相談を受け、「ブルガリヤ菌を含み整腸作用がある」と、乳酸菌飲料の導入を提案した。

昭和13年、上海衣糧廠の注文に応じ現地工場を開設。北海道で滅菌・加糖した原液を輸送し、希釈・瓶詰めは上海で行うボトリング方式で、「活素(カツモト)」を生産。主に傷病兵に支給された。軍御用達ドリンクの評判が内地に広まると、北海道と大阪に市販もスタート。しかし戦況悪化につれ砂糖の調達が困難となり、数年で打ち切られる。

◆カツゲンのルーツは活素(カツモト)?

なにしろ商品名や中身が似るし、両方とも雪印ブランドの乳酸菌飲料だから、「カツゲンのルーツはカツモト」と考えたくなる。商標を雪印乳業から継いだ日本ミルクコミュニティ〜雪印メグミルク「よくいただくご質問」の回答も、活素(カツモト)の繋がりに言及。近年はより詳しい解説、沿革-カツゲン発売のページもできた。

「カツゲン」の名前の由来は何ですか?
「活力の源」を語源に「カツゲン」と命名しました。「カツゲン」は1938(昭和13)年に「活素(カツモト)」という名前で、傷病兵と軍需工場従業者向けに販売され、1945(昭和20)年ごろに「活源」という名前になったという記録が残っています。

◆カツゲンは似て非なるもの?

かつて農協系の札幌酪農牛乳(株)に勤務し、カツゲンの命名、ロゴ製作から昭和31年の新発売、商標登録に至るまでを担当された、OBへのインタビュー記事がある。「なまらむ〜ちょ」さんのカツゲン誕生秘話(IAキャッシュ)がそれだ。

聞き取りによると、カツゲンは札幌酪農牛乳が初手から開発・販売したもので、名前は瓶に載せたキャッチ「活力の給源」が由来。活素(カツモト)に全く触れていない。滅菌・加糖濃縮タイプの活素と、乳酸菌を生かしたままのカツゲンは、種別が違う。製造プロセスは戦前品と無縁なのだろう。ただ、ネーミングはちょっと影響を受けている…感じがする。

カツゲンは確かに、後に雪印の製品となった。札幌酪農牛乳は昭和30年の段階で雪印乳業と資本提携を結んでおり、同36年に吸収合併される。しかも、発売後たちまち大人気のカツゲンは、雪印の希望で合併を待たず移譲済みだった。雪印社史の言う昭和31年「委託加工で発売」の記述は、そんな経過を示唆する表現だろう。

◆ヤクルト襲来!乳酸飲料攻防線

乳酸菌飲料市場を席捲するヤクルトの、北海道初上陸。迎撃商品カツゲンは急遽、突貫作業で生まれた。結果的には道内の抵抗勢力に留まるが、後続の「スノーラック」(昭和32年)と、地域の味覚嗜好を反映した改良型カツゲン「雪印ローリー」(昭和34年)は全国的な成功を収め、ヤクルト専制に大きな楔を打ち込む。

明治パイゲンC、森永マミーなど、同系後発のライバルにも引けを取らない戦果だ。とはいえやはりヤクルトは強い。今も往時と同様の形(通常ドリンク類と一線を画す小容量パッケージ主体)で存続するのは、ヤクルトだけである。


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