◆国策会社東京乳業・戦後の分解
戦後、無理強いされていた統制枠が消滅すると、構成各社は自らの再興を期して脱退・独立。昭和23年に森永製菓(森永乳業)が抜け、次いで西多摩郡酪農協(西多摩牛乳)と興真舎(コーシン牛乳)も出て行った。
明治乳業は大物が去った後の東京乳業(株)にあり、残余資産を自社へ合併・基盤確立を策す。しかしまだ規模が大き過ぎ、独禁法や集排法に触れる恐れがあった。もう少しメンバーを送り出したい…そこで、統合に呑まれていた一社、小児牛乳(株)の元経営者、往時の市乳業界に勇名を馳せた藤本伊美氏へ再起を促した。
◆藤本伊美氏による東京保証の再興
藤本氏は思案のすえ、戦前の東京保証牛乳(株)専務だった足立慶造氏(元キングミルクプラント経営)と手を結ぶ。昭和25年、東京保証が往時に現物出資した東京乳業(株)板橋工場を買い戻し、旧社名そのまま新しい「東京保証牛乳(株)」として再発足。ここに保証ブランドが復活、戦後の道を拓いた。
新・東京保証の誕生で事業規模のバランスが成り、同年に明治乳業は東京乳業(株)を吸収合併。板橋工場は実質的に明治傘下で操業再開していたため、新・東京保証はしばらくの間、明治製品の受託製造も行った。板橋を除く旧・東京保証の各拠点がどうなったかは不明。大半は消滅と見られる。
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画像上:戦後の新しい東京保証牛乳(株)の新聞広告(昭和26年)…「最高の栄養は最良の牛乳から」。 |
◆傍系の保証牛乳が現れ大混乱
ところが間もなく後述の横浜保証牛乳(株)が保証牛乳(株)として復活。この会社には戦前の東京保証牛乳(株)の別の関係者が参与しており、保証マークを使って盛大に商い始め、都下市場にも流れ込んだ。
商圏は丸かぶり、警察・保健所から牛乳腐敗・異物混入の指摘を受けて赴くと、保証は保証でも別会社、横浜側の製品…家庭宅配の契約においても新・東京保証のつもりが横浜のほうだった…というような混同が度重なる。
◆東京保証は第一牛乳へ
藤本氏は裁判で商標権を争うことも考えた。ただ、もともと東京保証牛乳の商号は再興時に便宜的に取り入れたもので、格別の未練はない。駆け出しの大切な時間を雑事に失えば本末転倒だ。混乱収拾のため新しい「東京保証牛乳(株)」と保証牛乳(株)の両社は話し合う。
昭和26年12月、東京保証は商標を譲り、自らは第一牛乳(株)に改称(藤本氏が師と仰ぐ実業家・渋沢栄一氏の「第一銀行」にあやかり、品質・業容とも第一でありたいとの含意)。また、戦前の「小児牛乳」マークも再利用のうえ仕切り直し…の顛末に落着。したがって以降は保証牛乳(株)が保証ブランドを一手に担う展開となった。
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画像上:第一牛乳(株)の新聞広告(昭和28年)…小児牛乳マークが復活。「名実共に!第一牛乳」「社長藤本伊美が、発育せし米国産ゼルシー種〜特別に濃い牛乳がでます」「都内販売店九十ヶ所」などの記載。 |
◆第一牛乳から雪印乳業へ
第一牛乳(株)は社名に同じく「第一牛乳」を商いの中核に据えて営業に邁進。明治・森永の二大勢力を間近に追うポジションに付き、着実な成長を遂げていく。そんな折、市乳部門の東京進出を決した雪印乳業の社長・佐藤貢氏、前社長の黒沢酉蔵氏ご両名から直々の協力要請が舞い込んだ。
昭和28年、藤本氏は雪印との資本・業務提携に合意。合弁会社の雪印牛乳(株)を設立し同社製品の受託工場へ転換。34年に完全買収され、雪印乳業(株)板橋工場となるが、立地・流通・設備の兼ね合いで、39年には閉鎖されてしまった。