昭和24年の事業参入以来、県下の農系工場としては中堅規模で推移、長らく商われた栗原酪農さんの2銘柄。当初は自らの団体呼称をブランド化(栗酪牛乳)。掲載180cc赤瓶に加え、同様デザインの200cc青瓶も使われていた。
昭和50年頃、大胆な「みちのく」の筆捌きが際立つ新銘柄に転換。以降近年まで続投も、現況は不明。すでに廃止と思われる。
往時の全酪連(ゼンラク牛乳)も、同様のビン詰め商品「ゼンラクみちのく」(加工乳)を商った。先発・後発は不明で、奇妙な相似だ。下記の通り栗酪と全酪は組織間に確執を生じており、どちらかの当て付け・対抗馬?だったのかも知れない。
◆全酪から雪印への鞍替えで大波瀾
栗原酪農では「栗酪牛乳」生産直売の傍ら、捌き切れない余剰乳を全酪・小牛田工場に卸していた。しかし昭和36年、深刻な経営不振に陥り、全酪へ再建支援を要請する。たぶん資本参加とか生乳価格の引き上げを求めたのだろう。
いっぽう全酪連の乳業部門も不況下で希望に応じられず、栗酪は雪印乳業との取引を模索。諸条件が折り合い、生乳出荷先をまるっと雪印に変更してしまった。
雪印は均衡維持のため、一部を全酪に中継供給。ちょっとした配慮だが、栗原郡一円の集乳基盤を一挙失った格好の小牛田工場は、その程度で黙るわけにいかない。巻き返しを図るべく、栗酪の組合員へ復帰依頼・個別条件を提示、切り崩しの挙に出た。
◆両者物別れの決着
問題はこじれにこじれ、栗酪・雪印・全酪の思惑が交錯、大揉めの展開と化す。結局、雪印は小牛田工場への温情移送を中止。栗原酪農と正式に業務提携、再建協力を約した。
当時、栗酪は宮城県酪連(全酪に団体加入)の傘下にあった。この収奪激化トラブルで立場を悪くし、昭和37年には県酪連より脱退を余儀なくされたという。
宮城県下は酪農が盛んだったことの裏返しか、宮城酪農(ウルトラ牛乳)を筆頭とする地域単位の組合、さらに全酪、雪印の進出と、農系団体同士の競合も極めて激しい。各者が自己存立を期し、色々な手段を講じたようである。
◆平成に再編合理化・組合は統合解消
かつて対立した栗酪・雪印・全酪も、今はみんな同じ屋根のもと、厳しい市況を団結で凌ぐ。平成12〜13年の乳業施設再編合理化を受け、栗酪は自家処理を中止、ジャパンミルク東北(※)に製造委託の業態へ。組合自身も合併統合、「みやぎの酪農農協」に変わった。
※もとは全酪連の宮城工場。牛乳水増し事件を契機にジャパンミルク東北(株)に転換(平成8年)。雪印の資本参加・再編合理化でみちのくミルク(株)に商号変更(平成14年)。雪印の集団食中毒による業界再編で日本ミルクコミュニティに合流(平成15年)。現在は雪印メグミルク子会社。
「牛乳キャップとは」さんの記事によると、ビン詰めは合理化前、すでにジャパンミルク東北への委託を開始。合理化後も、引き続き委託契約を継続しており、栗酪オリジナルブランド(みちのく)の商いは、少なくとも平成20年頃まで続いたらしい。
― 参考情報 ―
栗原郡酪農農協の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙栓 / ジャパンミルク東北の紙栓 (牛乳キャップとは)