<森永製品のいろいろ>
◆ホモちゃん・なかよしびん(二合瓶詰め)(昭和28年10月)
森永乳業は「ホモ牛乳計画」の仕上げに、二合瓶装(仲よしビン)をリリースした。しかし売り上げ伸び悩み、数年で製造を中止。当時は宅配がメイン、森永は2本持って行く所を一本で済むのだから、倍の小売利幅はなくて良いと考えた。とはいえ販売所雇いの配達人は歩合制。一合瓶と混じって計算が厄介で、歩合マージンも折り合わない。
それでも工場生産ベースで全体の2割に達し、のち流通の500cc瓶装は、宣伝なしで自然と伸びた。「あと一年早く、各家庭に冷蔵庫があったら」なんて回想が出てくる時代。販売所店主は「一合瓶は牛乳の容器であると同時に、コップだと言う考えが、日本では未だにある。これが瓶の大型化を妨げている」とも指摘した。
小売単位の増量予想は明治乳業の座談会も参考になる。協同乳業のテトラパック大失敗を含め、消費・販路拡大を受けた輸送の最適化は、大手各社にとって頭痛の種だった。やがて紙パックの品質向上・大躍進で、劇的に片が付いてしまったが。
◆コーヒー牛乳の発売(昭和32年7月)
「この製品特有の濃厚な風味が他社を圧し〜インスタント時代の朝食用コーヒーという、発売計画時に予想しなかった新用途がひらかれ、アパート地帯に大きな需要が生まれたのはうれしい誤算だった」と、[森永乳業五十年史]は記している。
コーヒー牛乳それ自体は戦前からあった。先駆は神奈川・平塚の守山商会(守山乳業)さん。細口王冠瓶に充填した「守山珈琲牛乳」が全国の鉄道売店に普及、爆発的なヒット商品となり、昭和30年代まで売られていた。
◆森永A牛乳の発売(昭和33年1月)
濃厚系アイテムは「森永J牛乳」(ジャージー牛乳)が最初に出るも、ジャージー種特有の青草の香味が一般受けしなかった。そこで登場したA(エース)牛乳は、名前に恥じない定番商品に成長。今も堂々の現役ラインナップだ。
各社この時期に上位グレードの加工乳を展開。「雪印スーパー牛乳」「ゴールド明治牛乳」「名糖クラウン牛乳」「グリコ デラックス牛乳」「小岩井特濃牛乳(「まきば」の前身)」あたりが競合品、濃厚ポジションを争った。
◆フルーツ牛乳の発売(昭和34年7月)
「まったく牛乳が嫌いな人にも容易に親しめるように、甘みと酸味、果汁の風味を配合した新しい飲料として開発された」と、社史にある。フルーツ牛乳は森永が元祖のごとき表現ながら、実際は三大乳業中、最後発。関東ではいつからか、いちご牛乳ばかり幅を利かせるいっぽう、関西はその逆、というのは有名な?話。
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画像上:牛乳瓶型のパンフレット(昭和30年後期)…コーラスはオレンジ色をしている。
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◆森永コーラスは意外な古参
「森永コーラス」は昭和初期の開発。戦時の物資統制で原料(砂糖)・資材の入手難に陥り、やむなく市販を中止。国内で最古に属する乳酸飲料のひとつだが、中絶期間が長く、戦後の新製品と勘違いされている…と社史は嘆く。
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画像上:森永乳業の宅配案内パンフレット/商品一覧「味と栄養のバラエティー」(昭和40年代中期) |
◆現行同様な広口瓶の採用(昭和9年)
かつて牛乳瓶は、ビール瓶のような王冠の細口瓶と、ヨーグルト向け広口瓶の二種が主流。キャップは午前製造が青、午後製造は赤色だった。森永は昭和9年、牛乳瓶の口径を現行同様の品に変える。当時「ドイツ型中口瓶」と称したタイプで、本邦初。重さは10匁(=37.5g)減少、既存のビンより安価に調達でき、他社も追随した。
◆ポリエチレンフードの採用(昭和32年10月)
それまでは各社とも「掛け紙」(紙製フード)を使った。紙と言っても無地でなく、面積の広さを生かして存分にデザインを凝らし、また多色刷りの面白い出来が多い。牛乳キャップに比べ残存は少なく、立派なコレクターズアイテムだろう。
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