<配給所店主さん座談会>
[森永乳業五十年史]配給所店主さんらの座談会に出てくる、興味深い話題をピックアップした。昭和42年の刊行時、牛乳の販路はまだ圧倒的に家庭宅配が多く、最前線の営業マンたる彼らの言葉が社史に必須だったのだ。
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画像上:森永乳業・東京工場御案内/市乳製品の一覧と製造工程(昭和30年代中期) |
◆元祖ホモ牛乳について
戦前にもホモ牛乳はあった。大正5年から11〜12年くらいまで、牧場経営者の藤本氏が、小児牛乳と銘打って出していた。均質化(ホモジナイズ)で脂肪球が砕かれ、お腹がゴロゴロしにくい…とされ、体の弱い子供向け。また、駅売りに文字通り「均質牛乳」という製品があり、当時は普通だったノンホモに比べて、何日間か日持ちが良かった。
◆戦前のホモと森永のホモの違い
戦前の初期型ホモジナイザーは性能が悪く、牛乳を暖めないと機械にかからなかった。戦後の機械は低温・常温で通せる、この違いは大きい。牛乳の風味変容に関わる。戦前のホモ牛乳は不味かった…。
◆ホモ牛乳の好評で森永が独走
「今まで商売をしていてこんなに愉快だったことはない。我々がホモを持っていて、他のところはないんですから。他社の販売店が羨ましがっていた。その次は例のフルーツ牛乳の発売。商売であんなに面白かったのはこの二つだけだ」
「会社も宣伝には特に力を入れていましたね。宣伝カーを回したり、ホモちゃんのレコード(サトーハチロー作詞・ホモちゃんの歌)を作って、幼稚園や学校に無償で寄付していました」
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画像左:森永牛乳の意匠打刻瓶(昭和20年代初期〜中期)…左側の瓶の背面は 「全乳180cc」、右側は 「市乳180cc」 の打刻。戦後広口ビンの初代〜二代目あたりだろうか。 |
◆印刷ビン(ACL・プリント瓶)の早期採用
「印刷瓶、これも良かった。余所より半年から一年早かった。嬉しかったですね」森永牛乳の印刷瓶は昭和27年頃、東京・横浜・名古屋等の大消費地で、他社に先駆けて採用されている。(⇒森永の牛乳瓶一覧)
それまでは瓶に直接、意匠を刻印(浮き彫り)したが、刻印の突起部分が輸送中に徐々に削れ、黒いゴミがついて汚くなる。見栄えがせず商品価値が落ちるのを避けるため、印刷瓶の導入に踏み切ったらしい。
なお、明治乳業の社史も同様の座談会を企画している。現場のストレートな言葉や回想談は面白い。
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