<均質処理・超高温殺菌のパイオニア>

◆ビタミン入り森永ホモ牛乳の発売(昭和27年6月)

クリームライン(牛乳上部の脂肪分の固まり)が明瞭で、その層が厚いこと―つまり今で言うノンホモ牛乳が、生乳に近い品質の証と認知されていた当時、均質化を行ってクリームが分離しない製品を売り出すのは、挑戦的な試みだった。社長が渡米視察でホモジナイズドミルクに開眼、「日本の乳業は著しく遅れを取っている」危機感を抱き、即導入を決断したという。

ホモちゃんの天気予報(昭和30年代)地方進出を宣言する新聞広告(昭和30年代中期)
画像左:ホモちゃんの天気予報(昭和30年代)…TV放映されていたもの(の、スチル写真)と思われる。
画像右:地方進出を宣言する新聞広告(昭和30年代中期)…「秋田県の皆さまに ウルトラ・プロセスの牛乳をお届けします」

別頁<1><2>の通り、森永はマスコットキャラ「ホモちゃん」を作って、まず消費者に親しまれるよう宣伝に重点を置く。製菓由来のグリコ・ランニングマークは別格として、乳業専属キャラクターのなかでは最も成功し、一般に浸透した図案だろう。結果は大当たり、その頃の様子は[森永乳業五十年史]が誇らしく書いている。

新しい道を開発するパイオニアには、常に外部からの反発と抵抗がある。ホモ牛乳の発売にあたって、官庁、生産者から、かなりの異論が示されたし、ある同業者は、堂々と反対の宣伝を唱えてきた。

しかし、森永ホモ牛乳の好評と好調な売れ行きの前には抗し切れず、他社も一斉にわが社に習ってホモジナイズド牛乳を発売するようになっていった。たとえば明治乳業も、半年後の27年12月には、明治ネオ牛乳(後にビタ牛乳)を発売している。

◆ウルトラプロセスの採用(昭和32年)

業界で森永が機先を制したもうひとつの技術が、UHT(Ultra High Temperature)・超高温殺菌だ。これを「ウルトラ・プロセス」と冠し営業攻勢を仕掛け、また大当たり。130度2秒・ばい菌イチコロ、長期保存性を確保、地方進出に弾みがつく。

UHT処理による効果は、この卓絶した殺菌率のほかに牛乳たんぱく質のソフトカード化、牛乳アレルギー症の発生防止、ビタミン残存量の向上などの効果もあることは、今日では常識となっている。〜乳酸菌も死滅するため酸敗ではなく腐敗をおこす特性も持つ。

UHTはホモジナイズとともに市乳処理のスタンダードとなったが、現今は様々な異論もある。社史はUHT導入を日本で一番乗り!の調子で記すも、数ヶ月早く宮城酪農の「ウルトラ牛乳」が世に出ていた。なお、明治乳業に先を越されたHTST殺菌(75℃15秒)は、遡ること昭和28年11月に採用している。


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<配給所店主さん座談会>

[森永乳業五十年史]配給所店主さんらの座談会に出てくる、興味深い話題をピックアップした。昭和42年の刊行時、牛乳の販路はまだ圧倒的に家庭宅配が多く、最前線の営業マンたる彼らの言葉が社史に必須だったのだ。

森永乳業・東京工場御案内/市乳製品の一覧と製造工程(昭和30年代中期)
画像上:森永乳業・東京工場御案内/市乳製品の一覧と製造工程(昭和30年代中期)

◆元祖ホモ牛乳について

戦前にもホモ牛乳はあった。大正5年から11〜12年くらいまで、牧場経営者の藤本氏が、小児牛乳と銘打って出していた。均質化(ホモジナイズ)で脂肪球が砕かれ、お腹がゴロゴロしにくい…とされ、体の弱い子供向け。また、駅売りに文字通り「均質牛乳」という製品があり、当時は普通だったノンホモに比べて、何日間か日持ちが良かった。

◆戦前のホモと森永のホモの違い

戦前の初期型ホモジナイザーは性能が悪く、牛乳を暖めないと機械にかからなかった。戦後の機械は低温・常温で通せる、この違いは大きい。牛乳の風味変容に関わる。戦前のホモ牛乳は不味かった…。

森永牛乳のちらし(昭和10年代?)森永牛乳のちらし(昭和20年代?)
画像左:森永牛乳のちらし(昭和10年代?)…往年のプロボクサー・花田陽一郎氏「元気回復と体力持続に一番効果があった!」
画像右:森永牛乳のちらし(昭和20年代?)…嗜好的なお飲物は一時的に感覚を楽しますだけ、牛乳こそ体力向上の要望を満たします。

◆ホモ牛乳の好評で森永が独走

「今まで商売をしていてこんなに愉快だったことはない。我々がホモを持っていて、他のところはないんですから。他社の販売店が羨ましがっていた。その次は例のフルーツ牛乳の発売。商売であんなに面白かったのはこの二つだけだ」

「会社も宣伝には特に力を入れていましたね。宣伝カーを回したり、ホモちゃんのレコード(サトーハチロー作詞・ホモちゃんの歌)を作って、幼稚園や学校に無償で寄付していました」

森永牛乳の意匠打刻瓶(いずれも昭和20年代初期〜中期) 画像左:森永牛乳の意匠打刻瓶(昭和20年代初期〜中期)…左側の瓶の背面は 「全乳180cc」、右側は 「市乳180cc」 の打刻。戦後広口ビンの初代〜二代目あたりだろうか。

◆印刷ビン(ACL・プリント瓶)の早期採用

「印刷瓶、これも良かった。余所より半年から一年早かった。嬉しかったですね」森永牛乳の印刷瓶は昭和27年頃、東京・横浜・名古屋等の大消費地で、他社に先駆けて採用されている。(⇒森永の牛乳瓶一覧

それまでは瓶に直接、意匠を刻印(浮き彫り)したが、刻印の突起部分が輸送中に徐々に削れ、黒いゴミがついて汚くなる。見栄えがせず商品価値が落ちるのを避けるため、印刷瓶の導入に踏み切ったらしい。

なお、明治乳業の社史も同様の座談会を企画している。現場のストレートな言葉や回想談は面白い。


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