戦後の発足から平成期まで、約50年を貫いたミルクプラント。岡山ではオハヨー牛乳やコクブ牛乳に並ぶ、最大規模の処理場だった。
掲載は初代の印刷瓶装と思しき一本。「健康に一番」というメッセージを、三角帽と腹掛けの赤ちゃんが大の字で伝える。この意匠は有名で、宣伝効果を期待できたらしい。県下の北房農協(北房牛乳)さんは、際どい類似デザインを用いていた。
◆守山商会の系列企業として発足
もとは昭和15年、神奈川の守山商会(守山牛乳)が、当地の豊富な農産物に着目。御津郡御津町一宮村の製缶工場を買収、傍系の守山食品(株)を興したことに始まる。
まずはフルーツジュースを手掛けるが、附近の酪農家より生乳を調達できたため、守山の定番商品、珈琲牛乳・グリコ牛乳に着手。乳業としての展開が本格化。その他、ソースなどの調味料、各種の食糧品も作って商ったようだ。
守山食品は昭和18年、大阪市住吉区に製酪工場を開設、バター製造を行った記録も残る。戦時の栄養不足の折、精力的に関連分野の事業を拡張した跡が窺える。
◆津山酪農組合の関わり
昭和初期、淡路島の種牛を導入・育成していた津山市院庄の酪農家グループは、津山酪農組合を結成。守山食品の進出に応じ、同社へ生乳出荷を始めた。
しかし何しろ御津町は遠い。冷蔵輸送は未発達で品質にも不安がある。組合は守山食品社長・守山鴻三氏に津山への拠点構築を要請。戦後間もなく、氏の従兄弟・大久保彰蔵氏が、津山市元魚町に集乳所・簡易処理工場を開いた。
◆戦後は東洋乳業を新設
母体の守山商会は空襲被害が甚だしく、終戦を受けて一旦解散。昭和21年、地方の系列工場を各親族に分与、守山食品は単体独立した。ただ鴻三氏の公職追放など紆余曲折あり、存続は難しい状況だったのか、数年で廃業に至る。
いっぽう元魚町の簡易工場は昭和22年、津山駅前(今津屋橋南詰)に移転。新たなミルクプラントを構え、大久保氏を社長に東洋乳業(株)が発足。鴻三氏は諸権利を譲って勇退。将来を見据え、守山食品の乳業部門がスピンアウトした格好だ。
原料乳の供給と実質運営にあたった津山酪農組合は、昭和23年に美作酪農業協同組合へ発展。規模を拡大しながら、東洋乳業とともに歩んでゆく。
◆競争激化で収益悪化・森永傘下へ
東洋乳業は病院給食納入のほか、西日本一帯の駅構内に販路を持っていた。たぶん守山食品時代の得意先を引き継げたのだろう。当時の瓶装も、守山と似た菊型瓶を採用している。(⇒東洋乳業の菊型瓶/川原の一本松)
とはいえ戦後の市乳業界は群雄割拠。昭和30年、経営不振に陥ると、森永乳業(森永牛乳)と業務提携。同35年、完全買収された。以下は[森永乳業五十年史]の言及より。
30年前後の不況で東洋乳業(株)は<中略>経営不振となってしまった。当社は元津山市長であった日本製酪協会理事・岸本章氏の仲介を心よく迎え、業務提携を行い、その後35年1月1日で株式全部を引き継ぐことになったのだが、酪農家、生産者の意思を受け入れ、かつ東洋乳業(株)の長い労苦に敬意を表し、社名の変更を行わなかったのである。 |
森永の連結子会社として、社名は健在。ただし東洋乳業は昭和47年、広島森永牛乳(広島市可部町)が吸収合併済み。登記上の存続会社・ステークホルダーは広島森永だが、この際も歴史を重んじ?商号は東洋の名を継承したようだ。
◆津山工場の閉鎖・広島に残る東洋乳業
紆余曲折を経て長らく稼働の津山工場も、平成9年度の乳業施設再編合理化でついに閉鎖。それまで「東洋牛乳」の銘は、主に学校給食向けに残っていたらしい。
東洋乳業・広島工場(旧・広島森永牛乳、現・広島森永乳業)は、今なお現役のミルクプラント。出自・沿革が全く異なり、過去現在を通じて「東洋」銘の展開はない。森永乳業グループ西日本エリアの重要拠点と位置付けられ、森永製品の受託製造が続いている。
― 謝辞 ―
守山食品時代の去就につきまして、小玉様よりご教授頂きました。
― 関連情報 ―
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