<実は失敗に終わっていたテトラパック>
名糖のテトラパック牛乳は、ビン詰めが当たり前の時代に、本邦初の紙容器利用を試みた先駆的な商品。協同乳業の公式サイトにも過去紹介があった(⇒日本初のテトラパック牛乳製造)。スウェーデンのテトラパック社より充填機を調達し、製造販売が始まるのは昭和31年末。記念すべき一台目は、東京市乳第一工場(旧・西多摩牛乳三鷹工場)に導入された。
これを「業界に革新的新風を吹き込むアイテム・消費スタイルの一大変化」とメディアも絶賛したのだが…。
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瓶と比べて割高な包装コストを増産によってカバーできず
輸送中、パックが破れて汚損することがあり
末端小売価格が壜装と同じなのに、卸値は瓶詰め製品より高く販売店の旨みに欠け
店頭直接販売を重視、既存の牛乳配達所を軽視して不興を買った
重視していた店頭販売も、スーパーマーケット等の大規模小売が未発達で
回収を必要としない利点も、当時の人件費はまだ安く、あまり意味をなさない
長持ちする、との宣伝が効きすぎ、店先で適切な冷蔵をしてもらえず
また、中身が見えない牛乳に対し、消費者の不安が根強かった |
など、諸問題が噴出。紙パックの出荷は伸び悩み、昭和34年に中止を決する。無用の長物と化したテトラ設備・資材の償却は経営を著しく圧迫。[森永乳業五十年史](昭和42年)は、もとより名糖に集乳地盤を踏み荒らされ怒り心頭のところ、この失敗にも触れ「一社による魁(先駆け)的商法は、消費者の理解を得られない」と嫌味を書いた。
のち刊行の[協同乳業30年史](昭和59年)は、自社に対する[森永乳業五十年史]の言及をそっくり引き写したうえで、「森永の支配から農民を解放した意義は大きかった」とやり返している。なんとも時間のかかる口喧嘩だ。
話を紙パックに戻すと、時は流れて昭和40年代、スーパーマーケット等の大規模小売業が発展し、流通・消費の形態は大きく変化。再び紙パックの利便性が脚光を浴び、ビンは急速に姿を消していく。協同乳業はテトラ中止後、製造ラインを瓶詰めに直しており、機が熟したその時はライバルに追随する格好で、一からの出直しを強いられた。
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