<砒素ミルク事件・堕天使時代の森永>

昭和30年、森永乳業・徳島工場が製造した「ビタミン入りドライミルク」により、乳幼児の集団中毒が発生。原因は粉乳の可溶性を高める添加薬品「第二りん酸ナトリウム」。業界では一般的な安定剤・乳化剤だったが、ある日の徳島工場が仕入れたそれに、大量の砒素(化合物)が含まれていた。

西日本を中心に被災1万3千余、およそ130名の子どもが命を失う。惨禍は紆余曲折を経て昭和49年、森永乳業が恒久支援を約した財団法人「ひかり協会」の設立で、被害救済の途を拓く。しかしそれは平坦な道のりでなく、森永側が被災児の様々な後遺症をドライミルクの砒素摂取が原因、と認めたのは、昭和45年の裁判中だった。

森永は協会設立を通じ過去の性急な対応を改め、現在に至っては事件も風化し、信頼回復を遂げた。こんなところで昭和42年刊行の[森永乳業五十年史]を持ち出し、あまり反省していなかった“堕天使時代”の、強引な自社擁護をあげつらうのは心苦しいが、社史が自ら述べる事件経過も興味深く、かいつまんで追ってみたい。

◆社史より事故発生経緯の要約

1.日本軽金属(株)清水工場で、アルミニウム精錬の際に副生した砒素化合物が
2.陶器顔料試作用として、京都の新日本金属工業(株)に売却されるも、実用化できずに再度放出
3.いくつかのブローカーを経て松野製薬(株)の手に渡った

4.松野製薬は化合物を脱色・再結晶、「第二りん酸ナトリウム」に酷似するその外観を利用し
5.米山化学工業(株)製「第二りん酸ナトリウム」順良品の木箱を偽造したうえで
6.脱色済みの砒素化合物を偽造木箱に詰め、順良品パッケージに紛れ込ませた

7.徳島の薬品商大手・協和産業(株)は、森永乳業・徳島工場からの注文を受け
8.松野製薬から、それとは知らずに砒素化合物入りの「第二りん酸ナトリウム」を買い入れる
9.森永乳業・徳島工場は協和産業より、砒素化合物入りの「第二りん酸ナトリウム」を納品されてしまうが…

10.一般的な添加物で、協和産業との取引実績もあり、森永は成分検査を行わず、そのまま使用した

◆当時の森永乳業の主張・考え方

「松野製薬の組織的・計画的な詐欺行為が諸悪の根源。協和産業には信用と実績があり、食品添加物としても一般的なものだから、森永側でこんな惨事を予見できるわけがない。りん酸ナトリウムとは名ばかりの、未知の砒素化合物だった」

「しかしこの際、背景事情はともかくとして、当社が全面的に道義的責任を認め、終始誠意を披瀝して見舞い、補償を含む対策にあたったことが、その後の急速な信頼回復の大きな礎となった」

「刑事裁判においては、この偽装を見抜くのは不可能であり過失なし、の判断が下され、一審判決は無罪だった。しかし検察側の控訴により、なお未確定である…」(のちに実刑が確定、後述)

◆その他の擁護論・楽観論

大阪大学名誉教授・西沢義人氏の手記は強烈だ。西沢教授は厚生省の依頼で日本医師会が設けた「西沢委員会」の長で、砒素ミルク被害の診断・治療方針策定に携わったほか、同省が事件収拾のため別途設置した医療識者機関、「五人委員会」にも招かれた経緯がある。

社史は砒素ミルク関係に約6ページを割くが、うち2ページに及ぶ西沢氏の総括と回顧は、一貫して森永の対応を支持。後年大問題に発展する被害児の後遺症について、仰天の楽観論を繰り広げる。

「被災者の今後の大きな不安は後遺症にあると思うが、私の手がけた数百例からしてその心配はない」
「ただ(森永乳業にとって)問題になるのは、先天性の疾病、たとえば脳性小児麻痺を後遺症と思い込む親たちへの説得にあるだろう」

当時の医学レベルやその他ニュアンスが背後にあっての物言いか。後遺症は無い・補償は済んだ…加害側の気持ちが伝わってくる。事件をメインに据えた章節ではないけれど、“中京地区特約店座談会”での参加者発言はさらに凄かった。

「しかし、森永さんが考えたほど影響がありましたかね。もっとひどくなるかと思いました」
「あとの処理がうまかったんでしょう」
「事故のあまり大きくならんうちに処置しなければならんというので、ほかのものを放って回収をやったのです」

いや、あの、発覚時点で充分に大きな事故だと思うんですが、と、戸惑うのはまだ早い。商品流通の兼ね合いで被害者の出なかった“東京地区特約店座談会”にも、追い討ちをかけるような言葉が続く。

※関東地区の販売店に、徳島工場以外の製品は安全とのポスターを張り出し不安解消に努めた成果について
「逆に言えば、あの不幸な事件が森永であったからよかったような点もありますね。ほかだったら潰れていたんじゃないでしょうか」

※事件後は一旦シェアが落ちたけれども、後の新製品発売で見事復活・森永製品が返り咲いたことについて
「中国の故事にもあるように、やはり守るより攻めるが勝ちなんですね」

昔は、本当に企業が強く、絶対の存在だったのか、唖然とする記述のオンパレードだ。例え思っていても、口にしてはならないことが、ぜんぶ表に出ている。往時の公害裁判も、こんな調子の人達が囲んでいたのだろう。

◆逃げられなかった森永乳業

後遺症が存在するにも関わらず、森永乳業と事態の早期収拾を急いだ厚生省(五人委員会)は、入院中の乳児に次々と「全快判定」を下し、何もかも解決したとアナウンス。話が長引きそうな、面倒な状況の封殺を図った。

昭和48年まで続いた刑事裁判は、元製造課長への実刑判決で幕を閉じる。この間、無理に押さえ込んでいた後遺症問題は、有志の追跡調査と新聞報道で再燃。民事訴訟は弁護団長となった中坊公平氏が活躍、ついに厚生省を巻き込んだ「ひかり協会」設立に漕ぎ着け、本格的な救済支援がスタートした。

民事裁判の経過は中坊公平・私の事件簿(集英社新書刊)に詳しい。森永側は、ごく普通の薬品を毎度検査するのは非現実的、実務を知らない人間の机上の原則論と切り捨てたが…森永と同じ第二りん酸ナトリウムをボイラー洗浄用に購入した国鉄は、事前検査を行って松野製薬の偽装・砒素含有を見抜き返品…の事実を突き付けられる。

森永社史は松野製薬と協和産業の「詐欺・背信行為への本格的な責任追及がない」と苦々しく指摘。知り得た限り協和産業に対しては昭和31年、毒物及び劇物取締法違反事件で社長が告訴され、徳島地裁で罰金3万円の判決が下っている。

◆操業停止の徳島工場を全酪連が代行運営

砒素ミルクを製造出荷した徳島工場は、もちろん操業停止処分を受ける。しかし周辺の酪農家が日々の生乳卸し先を失うと、地域経済のダメージが大きい。行政は臨時措置を検討、徳島工場を全酪連(全酪/ゼンラク牛乳)に委託・管理させる。この際、明治乳業が森永不在に乗じ、集乳地盤の奪取を画策、一波乱を生じた。


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<都下の学校給食向け牛乳(学乳)より撤退>

紙パックの台頭で、ビン牛乳は生活圏から姿を消しつつある。ちょっと特殊なマーケット、例えば駅売り、宅配、観光地、病院、官公庁ほか…残存は場所次第だ。とりわけ学校給食は定番・馴染みの舞台。しかし学乳市場の現実もなかなか厳しい。

森永乳業の宅配案内パンフレット(昭和40年代中期)
画像上:森永乳業の宅配案内パンフレット(昭和40年代中期)

平成17年、森永乳業は東京多摩工場の200cc瓶装ラインを廃止、都下学乳より撤退を表明。結果、他社の紙パックへ切り替えが進んだ。学乳は文部科学省「標準食品構成表通達」が容量を規定、森永の軽量新瓶(180cc)は要件を満たさない。採算が悪く手を引きたいのが本音、とみる向きもある。

一部地域ではPTAを中心に「紙パック反対運動」が起こった。国立市は群馬県の東毛酪農と独自契約を結び、ビン詰め・低温殺菌に鞍替えを果たす。顛末は下記サイトが詳しい。

来年から学校給食のびん牛乳が紙パックに変わる!? (元都議会議員・大西ゆき子)
給食の牛乳が変わった〜ビンからビンへ 超高温瞬間滅菌から低温長時間殺菌へ (国立市の教育)

東京の牛乳供給事業者は、森永のほかに、明治、協同、興真、日本ミルクコミュニティー、グリコが入っていて、森永が撤退すると、その後を引き受けるのは、日本ミルクコミュニティーのようです。ここは現在はびんで包装していますが、森永のやってきた地域まで担当すれば、紙に変更せざるを得なくなるということのようです。(⇒都内4割の地域で、びん牛乳が紙パックに/はじめ通信)

上記引用のレポートには、平成16年時点の学乳の提供形態(瓶/紙)が載っている。学校も既に紙パックが大半と思いきや、瓶が大健闘。都内13区域中、紙パックは3区だけ。ところがホモちゃんが去ると、新たに4区が紙パック化。笑えない一発逆転だ。

<ホモちゃん200cc瓶・消滅へのカウントダウン>

森永牛乳販売所の軒先に、ホモちゃん200cc青瓶を見なくなって久しい。哀れホモちゃん瓶は回収・資源化、何物かに転生の定め…とはいえ同業大手に比べれば、森永は古き良き印刷瓶で最後まで粘ってくれた会社である。

軽量新瓶の新聞広告(平成19年2月6日・讀賣新聞・朝刊)
画像上:軽量新瓶の新聞広告(平成19年2月6日・讀賣新聞・朝刊)

移行ひと段落の頃合い、プラ栓・軽量新瓶の新聞広告が出た。瓶コレクターの枕を涙で濡らす、無地・シュリンク瓶装がずらり。但し書きは「一部地域により容器が異なる場合がございますが、中身に違いはありません」。しばらくの間、恐らく生産ライン・資材都合で、カルダスとエースミルクの四角瓶のみは、なお流通していた。

原料高騰で180ccへの減量トレンドは続く。業界標準200ccを見限り、ラインナップを180ccに統一合理化したのは、大手だと森永が最初か。昭和45年、農林省・学乳200ccへ増量の大号令。白牛乳の一合瓶装は、追随無用のローカル乳業、もしくは頑張る酪農家・こだわりブランドの証だった。近年は原点回帰相次ぎ、そんな判断も通用しなくなっている。


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