昭和30年に発足した「沖縄アミノ酸ヤクトール本舗」を起源とする、県下随一のメーカー。乳酸菌飲料「ヤクトール」(⇒福岡応用菌学研究所)の商いに始まり、のち市乳事業へ参入、「ゲンキ牛乳」を積極展開。37年、ゲンキ乳業と改称した。
ゲンキは迅速な企業化・近代化で大躍進。昭和45年には本土復帰と内地資本の進出を見越し、森永乳業と資本・業務提携を結ぶ。結果、沖縄森永乳業(株)の合弁設立に至り、独自銘柄を一旦封印、森永ブランドに転換した。
◆教師から建築資材、そしてヤクトールへ
創業者の新垣守氏は、嘉手納にあった県立農林学校の教師だった。終戦とともに学校は閉鎖され職を失うが、昭和27年、琉球政府が本土の材木輸入を解禁すると、復興需要を睨んで建築資材問屋の新洋商会(現・新洋)を立ち上げる。
そうして杉材の買い付けに赴いた宮崎県。市中では乳酸菌飲料が大人気、将来有望なアイテムと直感。新垣氏はかつて教鞭をとった農校の卒業生、乳類の加工にも心得があった。
・沖縄における企業の生成・発展に関する史的研究 (広島経済大学)
昭和30年、福岡県三猪郡の「福岡応用菌学研究所・アミノ酸ヤクトール(株)」とフランチャイズ契約のうえ、「沖縄アミノ酸ヤクトール本舗」を創立。ヤクルト沖縄進出の機先を制し、健康面のアピール・大々的な宣伝活動を仕掛け、成功を収める。
◆「ゲンキ牛乳」のネーミングと掲載瓶について
完全食品と持て囃された牛乳の可能性にも、すぐに気が付いただろう。地元資本による沖縄牛乳市場の開拓、衛生的な近代設備での市乳処理、ひいては食生活の改善を期し、昭和35年にミルクプラントを増設。「ゲンキ牛乳」の新発売に臨んだ。
愉快な銘の含意は「栄養豊富で消化吸収も早い。成長と健康に役立ち、大人も子供もゲンキハツラツ、元気快復の源」。新垣氏は学生時代、実習で作った乳性飲料を「ゲンキカルピス」と名付け、運動会や文化祭で頒布、好評を博した思い出も背景にあった。
昔日の社名を残す(1)番瓶が、ゲンキ君(ゲンキ坊や)初登場と思しき一本。35年のミルクプラント落成からゲンキ乳業に改称するまで、約2年間の端境期か。後継(2)(3)番は個人経営を脱し、株式会社となった38年以降の二世代である。
・沖縄アミノ酸ヤクトール本舗・ゲンキ乳業の牛乳瓶 (ビンの博物館)
・6月11日の瓶を検証 其の二 (のんびりお散歩石垣島)
◆生き残ったゲンキ君・復活するゲンキ君
前記の通り昭和45年、森永と提携し、沖縄森永乳業(株)を設立。当時は7:3の出資比率で旧・ゲンキ側が経営権を掌握も、平成期に株主構成が変動、今は森永の連結子会社だ。
沖縄森永の誕生後も、ゲンキ乳業の支店扱いだった宮古ゲンキ牛乳と、八重山ゲンキ乳業の2社は各々存立。本島への森永進出をものともせず、過去のれん分けのような形で各島に根付いた工場は独立独歩を貫き、ゲンキ軍団の営業が逞しく続いていく。
・森永ゲンキミルクの謎 (仲村オルタの島ブロ小2)
・ゲンキのミナモト〜3人のゲンキ君〜 (あんちーかんちー)
・ゴーヤーで元気とうしさんありがとう (nanseiblog.com)
平成6年には沖縄森永もゲンキ牛乳(森永ゲンキミルク)を復刻・再販。宮古ゲンキはゲンキ君のビン詰め3種を展開(平成21年に元気生活へ社名変更、瓶装もリニューアル)。いっとき三社三様のゲンキ坊やが、表向き無関係の態で、沖縄を走り回った。
◆「ゲンキ」に関わる商標の権利関係
八重山ゲンキ乳業は、新垣氏が八重山諸島におけるヤクトール販売権を、農校の同級生・新哲次氏に譲ったのが事の起こり。新氏は役場勤めの傍ら、商売に乗り出す。宮古ゲンキの起業経緯は不詳だが、やはり何か人の繋がりがあったのだろう。
・沖縄人国記1998-渡嘉敷村 / 同-竹富町 (琉球新報)
・八重山人の肖像-新哲次 (やいまタイム)
いっぽう法的に、(1)(2)番瓶の初代ゲンキ君の図案、および「ゲンキ/GENKI」の呼称は、平成26年現在も、新垣守氏個人が権利を有する登録商標だ。既にお蔵入りして久しい「ヤクトール」の名は、沖縄森永乳業が保持している。
各島のゲンキ銘は、往時に年限など格別の取り決めなく使用権が分譲されたか、あるいは新垣氏の粋な計らいで残った側面があるのかな、と思う。
◆本土とは異なる沖縄の流通事情
返還前の県下乳業事情は資料に乏しく、占領軍統治で内地と異なる点も多い。[沖縄森永乳業四十年史-牛乳と共に40年](平成7年)に、その一端が垣間見える。
戦後は普通の一合瓶が主流。のち紙パック導入の際に、アメリカのヤード・ポンド法に基づいて生産する工場が出来、各社それに倣った名残りで、今なお多くの飲料品が946ml(1/4ガロン)ないし473ml(1パイント)単位なのは、良く知られた話。
・沖縄の牛乳などは何故に946ミリリットル主流なのか?(石垣島マリヤ乳業&牧場)
「学校給食用牛乳200ccへの増量が平成5年」に驚く。本土では遅くとも昭和46年前後に普及した施策が、沖縄では20年以上遅れた次第。県外利用実績のない森永牛乳(11)番瓶は、180cc標準が長きに渡った沖縄専用で間違いなさそうだ。
◆堂々の「1級」等級標示について
宮古ゲンキ乳業さんが商ったゲンキ銘のビン牛乳は、ゲンキ君の姿そのまま、(3)番瓶とほぼ同じデザイン。ただ、さすがに琉球政府の等級標示は再掲していなかった。
オキコ牛乳やヘルス牛乳ほか、沖縄ローカルの古瓶には「1級」宣言を多数確認できる。昭和30〜40年代の沖縄以外には見られない、占領軍のAサイン制度と連動した衛生管理のランク付け。仔細は別途マルサン牛乳の項にまとめている。
ちなみに沖縄森永乳業さんは、昭和57年に瓶装ラインを廃止。本家本元によるビン詰めゲンキ牛乳の復活は、残念ながら、ちょっと期待しにくい状況である。
― 謝辞 ―
沖縄森永の社史や往時の電話帳など、和田(モリ)様よりご提供頂きました。
また、向名(こうめい)館・名護様よりも関連情報を頂戴致しました。
― 関連情報 ―
街の風景-壊されて (お気に入りベルジュバンス的生活)
宮古島まもる君の飲み物 (彦リン日記VII〜宮古島より)
宮古ゲンキ乳業の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
宮古島産生乳、出荷停止も 酪農法人が廃業意向 (琉球新報)
生乳の出荷停止決定 / 島内から酪農消える / 牛乳の供給再開 (宮古毎日新聞)