ついに創業100年を迎えた、県下有数の老舗。始まりは大正7年、守山甲子太郎氏・謙氏による村の零細バター工場。借金経営の苦しい時代、手探りで会得した乳性薬品(カゼイン)製造を経て、昭和初期に「守山珈琲牛乳」が大ブレイク。
次なる無糖練乳(富士エバポレートミルク)は初の国産品、革新的な商材で大躍進。戦後は飲食店・業務用アイテムに傾注。主要ラインナップはココアやバター、クリーム、デザート類。昨今は再び小売市場への展開が増え、一般の知名度も回復しつつある。
◆守山珈琲牛乳の誕生
大正9年に売り始めた「守山珈琲牛乳」の鉄道販路の開拓成功は、同社を飛躍的に成長させ、ブランドの認知向上に貢献、昭和30年代まで経営の柱・原動力だった。
二代目社長の守山謙氏が、バター納品に訪れた都下の商店で、コーヒー豆の輸入業者さんと出くわす。サンプルを貰って帰り、試し挽き、牛乳・砂糖を加え瓶詰め。駅弁屋に持ち込みテスト販売で大評判…の挿話は公式サイト(はじめて物語)に詳しい。
新しい飲み物「コーヒー牛乳」の魅力は勿論、これを成功に導いたのは守山氏の商才によるところ大。氏は国鉄・東京鉄道局に人脈を築き拡売の後援を得る。各地方の鉄道局は東京からの推薦に応じ、駅売店の取り扱い急増、瞬く間に一世を風靡した。
◆鉄路による全国制覇
昭和3年頃には青森から鹿児島まで、全国鉄道網に「守山珈琲牛乳」と「守山均質牛乳」が浸透。東海道でいち早く駅売りをしていた、静岡県富士郡の日本均質牛乳(株)も買収。グリコーゲン配合の「グリコ牛乳」(「均質牛乳」改名・後述)を新発売。
その後「ビタミン牛乳」を加え、鉄道牛乳シリーズ3種が揃う。この頃、明治はココア牛乳、森永はスイート牛乳・紅茶牛乳で対抗も不発。戦前の鉄道売店は守山の独壇場だった。
快進撃は乳飲料に留まらず、アイスクリームも成功を収める。駅売りはもとより、冷菓製造業者向けのアイスクリームの素(原料製品)が大ヒット。製法や脂肪分については、守山氏の提言がそのまま、鉄道物販の品質規格に採用されたほどだった。
◆珈琲牛乳 VS 進駐軍
ところで戦後、昭和25年。GHQは牛乳・アイスクリームなど乳製品の品質向上を目的に、取締りを実施。なんと珈琲牛乳は「規格外」で売れなくなってしまう。
同根企業の筑波乳業、広島の桜屋、岡山の東洋乳業ほか同業者も困り果て、守山商会を業界代表と仰ぎ、調整を依頼。そこで守山氏は厚生省に省令改正を嘆願する一方、自らGHQ総司令部へ足を運び、こんな風なやりとりをしたという。
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守山 「珈琲牛乳は完全殺菌・永久保存がきくよ」
GHQ係官 「本当に?」
守山 「牛乳の新しい規則に含めて欲しいな」
GHQ係官 「すぐに腐ったりしない?」
守山 「絶対に腐んないよ!」
GHQ係官
「うーん、じゃあ、珈琲牛乳をスチームの上に並べて二週間置いて、それで腐らなければ僕の負けだから、その時は規定に入れてあげよう」
二週間後、果たして珈琲牛乳は腐敗しておらず、1年がかりのロビー活動のすえ、ようやく販売が認められたらしい。実に難儀な時代だ。
画像左:守山牛乳のポスター(昭和20〜30年代)…銀盆に珈琲/グリコ牛乳が並ぶ。[守山乳業四十年史]より。 |
◆戦後の低迷と復興
そもそも平塚工場は空襲で焼けており、再出発は苦難続き。突貫工事で無理くり再建し、昭和22年秋、少量ながら鉄道牛乳の生産に漕ぎ着ける。復活後、初の出荷先は軽井沢の小林伴治商店(小林ミルクプラント)で、「紅茶牛乳」の納品だった。
続くGHQの横槍は何とか躱すも、戦後は低価格の類似品・新興勢力が台頭。守山の商圏は縮小を余儀なくされた。旧来得意先のフォロー、ブランド認知の底力で徐々に盛り返すが…。
昭和30〜40年代は大手メーカー各社と地場中小乳業、農協系プラントの勃興で市乳業界は大乱戦の様相を呈し、駅売り王座の奪還はならず。やがて守山乳業は活路を別の場所に求め、一般的な小売市場から距離を置くようになっていく。
◆掲載瓶・菊型瓶について
掲載は昭和30年代の流通と思しき、王冠栓仕様の細口ビン。守山の鉄道牛乳シリーズ、戦後の新顔?「ビタミン牛乳」向けの一本。胴部エンボスとほぼ同じ内容を、肩口にプリント標示した変り種。牛乳類の容器では珍しいタイプだ。
昭和4〜5年頃、バラバラの形状だった「田舎臭い不体裁な壜型」を、「ハート(盾)マーク入りの菊型長壜」(胴部に凹みのないコカコーラ瓶のような形)に統一。「鉄道旅行者一人残らず皇室中心主義になさん」とイメージチェンジ。掲載瓶もその流れを汲む。
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画像上:守山乳業のビン詰め商品(昭和32年)…珈琲/グリコ/ビタミン牛乳、オレンジジュースの4種。徳用の化粧箱が可愛い。[守山乳業四十年史]より。 |
上掲写真は昭和32年のラインナップ。珈琲とグリコはエンボス標示+肩口に紙ラベル貼付。ビタミン牛乳(とオレンジジュース)には瓶印刷を施し、紙ラベル省略の様子を見て取れる。再利用時に面倒な紙の部分を印刷に置き換えたのだろう。
◆旧世代と最終形態
過去流通が膨大かつ広範ゆえ、古瓶が多く残る。好事家捕捉の機会に恵まれ、そのバリエーションが楽しい。エンボスに「守山文化牛乳」を名乗る世代もある。
・守山商会の菊型瓶と菊型移行以前の旧瓶 (平成ボトル倶楽部日記)
・守山文化牛乳の菊型瓶ほか、同時代の王冠瓶 (ダルメシアン奮闘記) ※消滅
・守山文化牛乳の菊型瓶 (やきもの以外の参考品たち)
守山乳業社史に曰く、最初は無色透明だった瓶が、戦中戦後の物資欠乏で色ガラスの混用を避けられず、青・緑がかっていった。上記サイト掲載の一部は、まさにそんな時代だ。
包装形態は昭和30年代中期に紙キャップ+広口瓶の標準形、38年に紙容器へ遷移。間もなく「守山牛乳」(鉄道牛乳シリーズ)の製販より撤退。旧瓶の掘り出し多数に比べ、晩年のパッケージは生産量・販路とも縮小の影響か、残存品を見ない。
◆グリコ牛乳と葛巻牛乳
グリコ乳業(江崎グリコ)が市乳事業へ本格参入するのは昭和30年代。以前は乳製品分野における商標登録がなかったらしい。結果、各地方の牛乳屋さんが勝手に「グリコ牛乳」を謳った(⇒嶋田同心製乳組合のグリコ牛乳/八郷の日々)。
グリコのキャラメルは大正期に生まれたヒット商品で、その便乗には違いない。守山商会は昭和4年、商標出願のうえ「グリコ牛乳」の認可を得る。のちに放棄、あるいは本家グリコに権利を譲渡したか、移転の経過は不詳。
近年、岩手の葛巻工場が手掛けた葛巻牛乳は、地元の学校給食や盛岡の一部店舗に流通。累計43万本を出荷も、レトルト設備増強のため市乳ラインを撤去、平成7年に終息。同10年、葛巻町畜産開発公社が継承、くずまき高原牛乳の発売に至った。
― 謝辞 ―
往時の歴史や葛巻牛乳の生産状況につき、小玉様、鈴木様よりご教授頂きました。
― 関連情報 ―
日本初、コーヒー牛乳のパイオニア「守山乳業」とは (はまれぽ.com)
新しい葛巻工場が完成 (広報くずまき-2006年5月号) ※IAキャッシュ
葛巻町の挑戦-ミルクとワインとクリーンエネルギーの町おこし (おしごとナビ大田区) ※IAキャッシュ