明治期に勃興した牧畜会社、箱根・耕牧舎グループを起源とする、老舗の牛乳屋さん。当時、グループの山梨支店に「猿橋耕牧舎」があった。ここで搾乳業を学んだ人が、本項の「大月耕牧舎」として独立した所らしい。
昭和38年前後に牛舎運営・自家処理より撤退、「大月牛乳」銘は消滅。今は森永乳業製品を商う販売店さんとなっている。
◆渋沢栄一氏の耕牧舎
耕牧舎は明治13年、旧幕臣の実業家・渋沢栄一氏らの発起により、神奈川の箱根仙石原に出来た牧場である。有畜農業の実践、国民保健へ貢献すべく乳業の発展を目論み、財閥・三井家も資本参加した大掛かりな開拓事業だった。
苦心のすえ牛飼いは軌道に乗るが、夏の避暑需要をピークに売上は急減、冬は余剰乳に悩む。降霜・降雪が早く牧草も不足気味、単一拠点での運営は難しかった。
◆東京進出と芥川龍之介の実父
そこで明治15年、東京下谷区中根岸(のち日暮里に移転)へ支舎(第二牧場)を設ける。翌16年、京橋区入船町にも支舎を増設、東京本店と位置付けた。
芥川龍之介の実父・新原敏三氏は、明治8年に山口県から上京。伝手を頼って下総牧羊場(御料牧場)に見習いで入り、飼養技術を会得。遅くとも14年頃、知己を得て耕牧舎に招聘され、間もなく東京両支舎の管理・経営を任されたという。
◆小さい成功者のひとり
芥川龍之介は築地入船の支舎(東京本店)で生まれた。晩年に著した掌編「点鬼簿」で、「僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった」と父親を評する。実際、新原氏は商才を発揮して、東京耕牧舎を大いに盛り上げていた。
隣接する外国人居留地を皮切りに、帝国ホテルや築地精養軒の一流どころ、海軍・病院ほか集団飲用の得意先を獲得、東京市内へ2支店を新設。明治26年には都下の先駆・前田留吉氏の牧場(芝区新銭座町)を買い取り、ここに本店を移す。
◆箱根の挫折・耕牧舎の分譲
いっぽう箱根仙石原の基幹牧場は、実務を担う人物の死去で継続困難に陥り、渋沢氏は耕牧舎の解散・清算を決する。明治38年、各地の支舎と「耕牧舎牛乳店 年賦売渡契約」を結び、耕牧舎の資産・ブランド名を全て放出した。
新銭座本店・新宿支舎は新原氏へ、日暮里支舎は松村浅次郎氏へ売却。東京以外では小田原支舎を岡部五郎氏に譲る。加えて購入者不明ながら、山梨県南都留郡谷村町と、北都留郡大原村猿橋の各支舎も、それぞれ譲渡の記録が残る。
前記の通り、この猿橋支舎が後の猿橋町耕牧舎(落合熊次郎氏)と思われ、猿橋からの独立・派生が本項の山口乳業・大月耕牧舎(山口角蔵氏)になるはずだ。
◆新原氏・東京耕牧舎のその後
かくて耕牧舎は各々が違う途を往く。東京は都市化・法規制進行にともなう牧場維持の困難、市場競争激化、最終的には戦時統制で暖簾が絶えた。
新原氏率いる東京耕牧舎は、明治末期には既に著しく衰退、往時の活気は二度と戻らなかった。新宿支舎は大正初年、臭気などを理由に廃場を迫られ、新銭座本店も程なく閉鎖。新原氏の没後、大正10年に営業権一切を岡名仁助氏が得る。
岡名氏は耕牧舎の屋号を引き継ぎ、芝区西久保明船町に軒を構えた。昭和初年に明治製菓系列の販売店に転換、のち終戦をまたず廃業に至ったようだ。
◆耕牧舎グループのその後
日暮里支舎は、かつて新原氏所管のもと、長らく松村浅次郎氏が切り盛り。同氏が諸権利を買収後の明治42年、次男・五三郎氏が跡を継ぐ。晩年呼称は「耕牧舎ミルクプラント」。昭和17年、統制企業「東京乳業(株)」に併合され、消滅した。
遡って明治37年頃、松村家は埼玉県深谷市に自営牧場を拓いており、今の松村乳業さん(⇒当社について)に繋がっている。神奈川の小田原支舎は戦後、(有)耕牧舎(小田原市山王原・松木勝治氏)として、昭和38年前後まで健在だった。
山梨県南都留郡の支舎は昭和前期の廃業か。本項に関わる猿橋町耕牧舎・大月耕牧舎については、後段の住所変遷、簡易年表に説明を譲りたい。
― 参考情報 ―
二人の父と四人の母:芥川龍之介研究のために (都留文科大学・関口安義氏)
ゆかりのある人物(芥川龍之介) (中央区観光協会)
新宿さまよい歩き5 芥川龍之介旧居跡 (安島喜一のホームページ)
年表*年少時代 (芥川龍之介私的データベース) / 耕牧舎の設立 (箱ぴた)
仙石原湖尻自然探勝歩道 耕牧舎跡 (写真で巡る箱根ハイキング)