サンキョー牛乳 (1)サンキョー牛乳 (1) サンキョー牛乳 (2)サンキョー牛乳 (2)
サンキョー牛乳 (1)

三協乳業(株)
山梨県甲府市上条新居町106(甲府工場)
新東洋硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代後期〜40年代初期
サンキョー牛乳 (2)

三協乳業(株)
山梨県甲府市上条新居町106(甲府工場)
東洋ガラス製・正180cc側面陽刻
昭和40年代初期〜中期

サンキョー牛乳 (3)サンキョー牛乳 (3) サンキョー牛乳 (4)サンキョー牛乳 (4)
サンキョー牛乳 (3)

三協乳業(株)
山梨県甲府市上条新居町106(甲府工場)
東洋ガラス製・正180cc側面陽刻
昭和45年頃〜50年代?
サンキョー牛乳 (4)

三協乳業(株)
山梨県甲府市上条新居町106(甲府工場)
東洋ガラス製・正200cc側面陽刻
昭和50年代〜平成5年頃

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昭和30年、ベビーフードで有名な和光堂の子会社、静岡・三和乳業と、山梨随一のローカルメーカー・武田食糧(武田牛乳)、さらに静岡・長野に練乳工場を展開していた諏訪産業(⇒保証牛乳グループ)の三社が、業務提携・共同出資のうえ立ち上げた企業体。

当時、和光堂の親会社は製薬大手の三共(現・第一三共)で、三協乳業の本社も東京神田の三共ビル・和光堂本社内に同居。「サンキョー」は三社連合、資本関係を表す命名らしい。

三協乳業の会社広告(昭和43年)三協乳業の会社広告(昭和43年)
三協乳業の会社広告(いずれも昭和43年)…明るい暮しに三協の乳製品。(1)番瓶のラインアートが載っている。これより古い時代の瓶装を確認できず、初代のデザインだったかどうかは不明。

地元スーパーや商店での小売、学校給食、宅配などを広く手掛け、中部地方メインに長らくの商いも、平成12年に会社は解散。「サンキョー」銘は廃止となっている。

◆諏訪産業・伊那工場の経営難

サンキョー発足の契機は昭和29年末、静岡県田方郡に八木沢工場、長野県伊那市に伊那工場を構えていた諏訪産業が、全国的な供給過剰・練乳相場暴落の煽りで、急遽事業停止したことだった。※仔細は保証牛乳グループ(沼津保証牛乳)の項に譲る

この際、生乳出荷先を失った一帯の酪農家を助けるべく畜産団体が動き、社長同士に旧友の縁があった武田食糧も、自社市乳部門の拡大を織り込んで支援。また、粉乳の売れ行き好調から増産を検討していた和光堂と、各者が諏訪救済に利害の一致を見る。

30年、伊那工場の運用を引き継ぐ格好で三協乳業の設立に至り、まずは和光堂の育児粉乳(レーベンスミルク)製造を主目的に操業開始。大手製菓資本の地方進出・市場寡占の危急に応じて、間もなく飲用牛乳へ着手、一時代を築き上げていく。

三協乳業の会社広告(昭和45年)
三協乳業の会社広告(昭和45年)…(2)番瓶が見える。加工乳(ミネビタ/マイビタ)・乳酸菌飲料(パックス)を除き、白物/色物の瓶装は共通のようだが、刷り色は違ったかも知れない。

◆三協乳業が新設、買収・継承した工場一覧

最盛期は中部に3県6工場を擁し、各地方メーカーの吸収によって生産・営業拠点を拡大の様子がうかがえる。ラインナップは業務用を含む牛乳・乳製品全般、粉ミルク、缶飲料(ジュース・お茶・コーヒー)、医薬品・化粧品、酪農飼料ほか、多岐多彩だった。

山梨工場

昭和23年、武田食糧(武田牛乳)が開設。36年に継承。当初は「甲府工場」の名乗り、下記新工場落成にともなって間もなく閉鎖。

甲府工場

昭和37年、サンキョーが新設。廃業まで操業。

増穂工場

昭和50年頃、熊本に本社を置く弘乳舎が山梨工場として開設。58年前後に買収・継承。ヨーグルトや乳酸菌飲料のみの製造拠点。廃業の数年前には閉鎖?現在当地に武田牛乳の販売店さんが残る。

長野工場

昭和34年、長水農工利連(ノーコー牛乳)が開設、同時に業務提携。40年に買収、廃業まで操業。工場施設は和光堂の小会社が買い取り。

伊那工場

昭和20年代中期、諏訪産業が開設。29年に経営難で休止。30年、三協乳業が設立時に借り上げ(サンキョー創業地)。和光堂の粉乳を製造。30年代中期?閉鎖。38年、近在のヤクルト乳業工場を賃借・移転、廃業まで操業。

藤枝工場

昭和18年、日東酪農工業が志太工場として開設。練乳・バター製造。経営不振で30年に廃業。翌31年、三和乳業が工場を譲受。34年に操業開始。サンキョーが36年に継承、49年閉鎖(静岡工場に業務移管)。

静岡工場

昭和42年、静岡県乳業(経済連・静岡牛乳/県乳・ケンニュー)が開設。49年、経済連より工場を賃借、廃業まで操業。敷地建物は売却されフレスコ(株)大井川工場に転換。平成28年、フレスコ解散、リフレカップ(株)が承継。

この他、昭和34年に長野県上伊那郡の北部酪農協(北酪牛乳⇒和光牛乳)の市乳販売事業を受任。37年、千葉県松戸市の千葉保証牛乳を買収、関東地方では保証乳業(保証牛乳)の経営に乗り出している。

◆三協オリジナル・サンキョー牛乳

「サンキョー牛乳」の登場は設立から4年後の昭和34年。長水農工利連と提携した長野工場が元祖。

三協乳業の初動は、和光堂の粉ミルク請け負いが中心で、市乳は後回し。転機は昭和36年、サンキョーへ出資参画した2社の乳業事業を吸収合併した時だ。

すでに確固たる営業基盤を持っていた武田食糧・乳業部(武田牛乳)の移管は、とりわけ大きな要素と思う。


画像右:三協乳業の合併告知広告(昭和36年)

三協乳業の合併告知広告(昭和36年)

統合の翌年、新鋭設備を備えた総合工場を甲府市に落成。移管アイテムの武田牛乳はもちろん、自社ブランド「サンキョー牛乳」も並行生産。製品化に手間のかかる加工品だけでなく、利益率・回転率の良い市乳に重点を置く方針が明確に示された。

◆広域展開の成功・平成の行き詰まり

自前のサンキョー銘と武田牛乳を二本柱としつつ、昭和40年代までは和光牛乳の販売、ノーコー牛乳の工場経営に参与。加えて静岡・経済連のクミアイ牛乳と県乳業のケンニューを処理し、関東では保証牛乳を売り捌く…という業態である。

複数エリア/拠点をまたぎ、多くの市乳ブランドを抱えた姿は全国にも珍しい。本項は主力工場のあった山梨県に置くが、実際は「サンキョーグループ」的な広域展開を果たしたところだ。

三協乳業の製品集合写真(昭和42年)
三協乳業の製品集合写真(昭和42年)…サンキョー、武田、和光牛乳、バターやヨーグルト、育児粉乳(レーベンスミルク)、ミルク製剤(アトロゾン)、業務用の粉末アイスミックスなどが並ぶ。なお、(1)(2)番瓶の広告欄にもある「レーベンスミルクA」は昭和35年、「レーベンスD」が同42年の発売だ。

三共のグループ会社として長期操業も、市況悪化で平成11年には自社・受託を問わず、全ての市乳事業より撤退、翌12年に会社は解散。晩年は請負加工賃の値下がりと、飲料部門におけるペットボトル導入の遅れが致命傷になったと指摘される。

― 参考情報 ―
三協乳業が9月末で解散 (日本食糧新聞社)
三協乳業・甲府工場の紙栓 / 同・増穂工場 / 同・伊那工場 / 同・長野工場
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 三協乳業の紙栓 (牛乳キャップとは)


■三協乳業
設立> 昭和30年、三協乳業(株)として
市乳事業開始> 昭和34年
市乳事業撤退> 平成11年
会社解散・廃業> 平成12年
電話帳掲載・公式サイト> 未確認

■増穂工場 ※「乳製品工場」としての掲載
開設> 昭和50年頃、弘乳舎・山梨工場として
昭50〜58> 弘乳舎 山梨工場/山梨県南巨摩郡増穂町青柳166-1
昭59〜平04> 三協乳業(株)増穂工場/同上
平22> 増穂町は合併して富士川町となる
電話帳掲載> 武田牛乳峡南販売所/山梨県南巨摩郡富士川町青柳町166-1
工場閉鎖> 不明ながら平成5〜10年頃

■伊那工場
開設> 昭和20年代中期、諏訪産業・伊那工場として
昭26> 諏訪産業(株)伊那工場/長野県上伊那郡伊那町伊那
昭30> 三協乳業が伊那工場を賃借・操業 ※のち30年代中期に閉鎖
昭36> ヤクルト乳業(株)(ヤクルト本社の小会社)が伊那工場を開設

昭38> ヤクルト工場を三協乳業が賃借、同・伊那工場とし、41年に買収
昭39〜平04> 三協乳業(株)伊那工場/長野県伊那市大字伊那5380
工場閉鎖> 平成12年?
電話帳掲載・公式サイト> 未確認

山梨(甲府)長野藤枝静岡各工場の変遷は、それぞれ別項に記載

処理業者名と所在地は、日本乳製品協会 [日本乳業年鑑・1951年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



漂流乳業