本拠地・横浜から全国展開、準大手の一角を占める著名ブランド。北海道・岩手・群馬・千葉(閉鎖)・岡山にも各種アイテムの専門工場を構え、ローカルメーカー色は既に希薄だが、いっぽうビン製品の宅配エリアは東京と神奈川に限られる。
平成期、ビン詰めは傘下に収めた関連会社、足柄乳業(足柄上郡中井町、旧・共和酪農協)へ委託。その後プラ栓・無地の軽量新瓶に移行して久しい。商標変遷の参考に、景品のコップや200cc印刷瓶の最終世代も載せた。
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画像上:高梨乳業の会社広告(昭和37年)…上掲の(1)(2)番瓶にストローを差した写真。
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◆原点回顧録・牛乳とばらに生きる
会社法人の設立は昭和21年、高梨畜産合資会社として。公式サイトの沿革はそれ以前の歴史に触れないものの、創業は明治40年、横須賀市大津に拓かれた牧場まで遡る。戦時は他社の例に漏れず、企業合同による組織の改廃があった。
タカナシ乳業の歴史と創業家の人物模様を伝える回顧録、[わが人生・牛乳とばらに生きる](昭和60年・高梨芳郎著)が刊行されており、牧場の萌芽〜成長期のエピソード、二代目社長肝煎りのバラ栽培ほか、同社の成り立ちは本書に詳しい。
◆庄三氏による高梨(大津)牧場の創始
創始・高梨庄三氏は千葉県鴨川の生まれ。酪農の盛んな当地に育って牧場経営を志向。遠縁にあたる横浜の中沢牧場に入ると、程なく横須賀の第二牧場を任された。
そこへ日露戦争が勃発。軍役に就き、召集解除で無事戻った明治38年、中沢牧場は経営不振で人手に渡っていた。庄三氏は義理固く、敢えて別の牧場に勤め直す。土地柄、海軍基地への納入仕事が多かった。
実直な働き振りが伝わったと見え、ある日、海軍から「大津練兵場の草地管理をしながら牧場をやってみないか」と誘われる。軍港の活気、洋食文化の浸透を肌で感じるこの街なら将来性充分と考え、庄三氏は明治40年、自ら牧場主となった。
◆芳郎氏による事業拡大・森永との提携
かくて創業に至り、若干の顧客基盤を整えた高梨牧場を大きく伸ばすのは、幼少期より牛飼いと搾乳販売を手伝ったご子息・芳郎氏。昭和6年、経営の一切を引き継ぎ、売り上げ頭打ちの横須賀はさて置いて、大消費地・横浜を目指した。
早速、当時横浜で最大規模の渡辺牧場へ原乳を卸し始める。渡辺氏は乳牛100頭余を繋ぎ、さらに高梨牧場の生乳を仕入れ、売り切るだけの太い販路を持っていた。
しかしこの頃、牛乳営業取締規則の改正が殺菌処理の条件などを細かく定め、順守に莫大な設備投資を迫られた。個人業者単体では到底対応できず、渡辺牧場は森永製菓(森永乳業)と提携、芳郎氏もやむなく森永との一時協業を決した。
◆統制経済下の企業合同で横須賀牛乳へ
昭和8年、小川町に森永牛乳・横須賀配給所(高梨牧場出張所)を設置、両ブランドの併売に着手。いっぽう横須賀にあった12牧場は全て明治製菓(明治乳業)傘下入り。芳郎氏は熾烈な販売戦のすえ、市内シェア35%を勝ち取る。
やがて戦時統制・企業合同の時代を迎え、集約処理工場の横須賀畜産乳業(株)と、販売店を束ねる横須賀牛乳販売(有)の2社が出来、氏は後者の社長に就任。
軍都ゆえ空襲は日増しに激しく、田舎へ疎開する牧場主さんも続出。結局、市内牧場の過半を高梨が買い取った。さらに北海道・岩手・長野から優良乳牛を積極的に導入・増頭し、戦時下にあって一層の規模拡大を果たしていく。
◆戦後の独立・高梨牛乳の再興
戦後しばらく統制の枠組みを維持、昭和21年に牧場運営の合資会社を作る。25年、個人企業が認められると、折しも高梨家の男兄弟3人が復員。大津牧場の一角に工場を据え、高梨畜産(株)を旗揚げ。横須賀牛乳を脱退・独立した。
市内にさしたる競合はない。抜けた横須賀牛乳で辣腕を振るっていたのは、他ならぬ芳郎氏なわけで、高梨無双である。会社設立後、僅か一年で高梨牛乳のシェアは7割に達し、懸案の横浜進出・神奈川全域を商圏とすべく足場固めを進めた。
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画像上:大津牧場に併設のミルクプラント(昭和25年)…高梨牛乳の再興拠点、8年後に焼失
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画像上:久里浜黒船祭(現・ペリー祭)の山車(昭和27年頃)…コップと同じクマさんが可愛い
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◆工場稼働率を押し上げた学校給食牛乳
飛躍の第一歩は、学乳だった。昭和29年、脱脂粉乳と生乳半々の「混合乳」で、学校給食用委託乳の出荷を開始(のち全乳―生乳100%へ移行)。給食向け卸し値は非常に安く、同業者が二の足を踏むなか、唯一の本格参入だった。
学乳は県下の主要自治体、横浜・川崎・横須賀・鎌倉地区の約150校、界隈の占有率98%の大商いに伸びる。高梨乳業の経営はこれで軌道に乗った。
藤沢の近藤牛乳や埼玉の森牛乳ほか、今日ご健在の中堅乳業さんらも、かつて学校給食に相当注力した。当時の判断が後の発展・衰退に繋がったと考えると興味深い。
◆稼働率が上がりすぎて工場全焼
学乳で勢いづく高梨牛乳。ところが昭和33年、増産に次ぐ増産で一日20時間操業のフル回転を続けた大津ミルクプラントが、ボイラーと煙突の過熱発火で全焼・崩壊。在庫を持てない日配品、「明日の牛乳をどうするか」の大ピンチだ。
事態は意外な展開を見せる。ライバル関係にある近在の森永系列工場(※)と、明治の横浜工場(横浜市神奈川区)が、復旧まで計20トンの請け負いを快諾。地元紙・神奈川新聞は「世知辛い競争の中で、同業者の温かい救いの手」と報じた。
※公卿町にあった横須賀畜産乳業の後身、昭和25年に森永と提携した横須賀乳業
(同社は昭和34年に横浜乳業へ改称、令和元年には横浜森永乳業となり現在に至る)
◆横浜へ移転・バラのマークの由来
米軍接収地の返還が進む横浜市は、空きエリアへの企業進出を募った。横須賀の工場焼失後、応急措置で凌いできた高梨乳業は昭和34年、誘致指定第一号を受け、旭区本宿町に移転(現・タカナシ本社)。ついに念願の横浜に出る。
取得用地は広く、工場と付帯施設を並べても土地が余った。そこで遊休地に一万本のバラを植える。芳郎氏は過去、バラに最適な肥料(乾燥牛糞)を求め、横須賀の牧場に来た愛好家と出会い、バラ栽培の魅力に開眼。本気の趣味であった。
市民に親しまれるよう工場見学を催す傍ら、バラ園も春先に一般開放して評判は上々。タカナシ=バラの認知が浸透すると、昭和57年に現行商標のバラのマークを制定。工場拡張の煽りで規模縮小しつつ、今なお当地にタカナシ乳業バラ園が存続する。
◆低脂肪牛乳発売に係る一悶着
昭和51年、本邦初の低脂肪牛乳「高梨ローファットミルク」を発売。芳郎氏が欧米視察で存在に着目、日本も肥満・成人病のケアが必要な時代と直感。第二工場を据えて製造販売に臨む。しかし当時は乳等省令に該当する規定がなかった。
とりあえず「乳を主原料とした食品」のカテゴリで出したところ、厚生省が駄目出し。「実質成分から加工乳にあたり、加工乳の規定脂肪分3%を満たしていない」…法律解釈を巡る禅問答だ。国の見解は無視できず、発売初日に出荷をストップ。
当局と半年ばかり折衝を重ね「乳飲料」で再発売も、天然色素で着色区別、商品名に「ミルク」の語は使用不可の条件。さすがに法律不備の指摘・タカナシ擁護論が多く、昭和54年、低脂肪牛乳(加工乳)の枠が省令に加わり、一件落着した。
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