昭和30年に地元農協が創始、永い歴史を今に伝えるローカル銘柄。もとは明治時代、貧しい村で始まった酪農の試み。乳牛繁殖の労苦、幾多の企業化と失敗、自力の輸送道路建設、トンネル工事でまさかの水源喪失など、苦難の連続だった。
牛飼いは波乱万丈を乗り越え、伊豆・田方を代表する産業に育つ。静岡県東部を基盤に首都圏・消費者団体向け販路を拓き、平成期には観光施設「酪農王国オラッチェ」が完成。「丹那牛乳」の銘は地域ブランド(地域団体商標)も取得した。
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画像上:丹那牛乳のテレビCM(昭和50年代)…丹那トンネルを抜けてきた蒸気機関車が、「たんな・たんな・たんなぎゅうにゅう・おいしいたんな」と連呼。1977-1991東海ローカルCM集(Youtube)より。 |
◆貧しい農村で頑張る牛さん
火山灰の痩せた土、平野に乏しい急傾斜の地形、夏には干ばつ・台風が襲い、冬は霜害・冷害に悩む。毎年のように不作に見舞われ、交通不便な僻地。静岡の丹那(たんな)盆地は小作農民が細々と暮らす、悲運の低収穫地帯だった。
そんな集落のひとつ、函南(かんなみ)村。明治12年、大地主・川口秋平氏は窮状打開のため、自ら山間部に牧場を開く。厩肥利用で土質改善と、収量・作付品目の拡大を模索。私財を投じて乳牛繁殖を行い、村人にも飼わせた。
牛飼いのメリットは明らか。周辺では貧乏農家が金を出し合う「牛無尽」も起こる。全体への普及は大正期。時代またぎの努力を経て、丹那酪農の基盤が見えた。
◆牛乳商売の黎明期
搾乳・販売は農村に貴重な現金収入をもたらす。当初は熱海や箱根の旅館が得意先。一帯に乳牛が増えてきた明治24年には、原料活用を期して三島に花島練乳所(金鵄ミルク・後に森永系の練乳工場に統合)などができ、出荷先の目も増えた。
この頃、函南を含む静岡・田方郡と千葉・安房郡は酪農王国の頭角を現し、東京市場2大供給源の地位を築いて、生産者サイド組織化の動きも活発に。
丹那エリアでは明治〜大正にかけて伊豆産馬会社、函陽社、丹那畜産連合会の勃興に至るが、どうにも需給安定せず、いずれも営業に行き詰り、長続きしなかった。
◆乳業事業の萌芽・三島牛乳の展開
大正末期は世界大戦と関東大震災で、市況が著しく悪化。乳価暴落、トンネル工事の悪影響(後述)、さらに森永ほか中央資本が進出し、主導権を奪っていく。そこで大正15年、田方郡の実業家・有志らは、伊豆畜産販売購買利用組合を発起。
伊豆箱根鉄道・大場駅前に処理工場を設け、殺菌乳を冷蔵貨車で移送。赤坂区田町の拠点で瓶詰め。府下に11の販売店を置き、「三島牛乳」東京直売に乗り出した。
・牧之郷義民伝 (田方の医史と医家伝) ※IAキャッシュ
地元の練乳工場に比べ、3〜4倍の高乳価を実現。一定の成果を収めるも、東京は大小数十のミルクプラントが覇権を競う過酷なマーケット。三島牛乳の拡売は難しく組合員の脱落が続出。昭和14年、全事業を森永製菓(森永乳業)に売却、解散している。
◆自腹で道路をつくる
出荷先がどうあれ、酪農家の変わらぬ悩みは牛乳運搬の労苦だった。急峻な地形に囲まれた山道を、天秤担ぎ、駄馬の背に乗せ、契約工場へ納める重労働が毎日続く。せめて荷馬車を使いたいと、ついに道路を作ることにした。
国や自治体は当てにならない。当時は「農民が使うなら農民が道を開く」のが当たり前。土地の買収・整備を自費で賄い、丹那〜大場間を結ぶ馬車道を通したのが大正10年。
生産が軌道に乗り出荷量は馬車5台に増え、今度はトラック輸送を目指す。建設基金を積み立て、昭和9年に刷新。正規県道並みの立派な舗装路は、「牛乳道路」と呼ばれた。
◆丹那トンネル工事による渇水
丹那は昔、豊富な湧水に恵まれ、稲作やワサビ栽培が盛んだった所。しかし大正7年に着工の東海道本線・丹那トンネル開削工事で水事情が一変、丹那の酪農強化に繋がっていく。
丹那盆地の真下を貫くこの隧道は、国家事業と勇ましく、工期7年の予定が16年。崩落・出水事故で67名の犠牲者を出す、建設史上、未曽有の難工事に化けた。
着工後6年経った大正13年。丹那の各集落を流れる沢が、次々に涸れ始める。いっぽうトンネル工事の現場では、盤面の至る所より想像を絶する量の水が噴出。広大な盆地の湛える地下水が無限に沸いてくる、地獄の水抜き穴だった。
・問題をまき起した丹那隧道 (東京日日新聞)
・丹那トンネルの話 (土木図書館) / 知ったかぶり (長沢つとむ後援会)
◆騒乱事件の頻発・鉄道省の大型補償
昭和に入って丹那の渇水は深刻化。地面陥没が各所で発生、飲み水にすら事欠いた。住民は役場や工事事務所に対し、数百人規模の抗議・蜂起を繰り返す。
関東大震災や降雨量減少に原因を求めた政府側もついに因果関係を認め、昭和2年に渇水見舞金を出し上水道を敷設。のちに鉄道省が相当額の補償金を支払う。
とはいえ、丹那に水源は戻らない。トンネルは昭和9年に開通、平成の現在も水抜坑から地下水を流し続ける(丹那湧水)。農民は補償金を元手に生活再建、水田耕作の類は諦めて、一帯に普及していた酪農経営に転換・邁進するしか途はなかった。
◆農協の設立・丹那牛乳の誕生
戦時に落伍多数も、丹那の牛飼いは堂々復活。昭和23年、函南村東部と周辺10集落が、函南村東部畜産農協を設立。酪農専門農協ではなく総合農協だが、「酪農家がやりやすい組合」を目指す趣旨で、畜産の語を付けた。
まずはメーカーへの原料乳出荷に専念。ところが需要不振・低乳価・受乳制限…お馴染みの悪循環。生産直売の気運高まる昭和30年、農林省「牛乳集団飲用促進施設・設置の助成」を受け、村に小さな工場を完成。ついに「丹那牛乳」がスタートした。
大手各社は県下に進出済み、販売は大苦戦。親類縁者に宅配契約を懇願、地元商店に「1本でいいから置いて」と訪問営業。徐々に販路を確保し、昭和33年に学校給食へ参入。生乳は一滴残らず「丹那牛乳」で処理販売、の意気込みだった。
◆二度の農地改革・首都圏への進出
昭和30〜40年代の農業構造改善事業で、急傾斜を平地に転換整備し、農機を積極導入。牛乳増産が進み、昭和46年、現在地に新鋭工場を建設。「農家は生産が主業」の声を振り切り、静岡最小の総合農協は、一大市乳事業に挑む。
宅配拡張を限界と見て首都圏スーパー市場を狙い、最盛期は製造量の半分を東京・横浜へ出荷。消費者団体大地を守る会と提携、低温殺菌牛乳を売り出す新展開もあった。
販売量の急増に応じ、昭和50年代半ばに富士市・富士農協(⇒参考:富士牛乳)の工場を賃借操業。同59年に買収?「丹那牛乳富士工場」とした。一時は2拠点生産となったわけだが、この分工場は間もなく閉鎖されたようだ。
◆掲載瓶・現行のビン製品について
掲載は3世代。(1)番瓶はホモジナイズ(均質化)を強調する初期の一本。「丹那牛乳」の丸いロゴは今も同じ、伊豆の山塊を表すデコボコ模様は、形を変え引き継がれる。
200cc増量後の(2)番はホモアピールをばっさり削除。続く(3)番はその後継、ただし色物向けの一合瓶。ビン詰めは健在も、平成期に無地の軽量新瓶+シュリンク包装+紙キャップ封緘へ移行済みだ。(⇒丹那牛乳の宅配サービス/公式サイト)
現行ラインナップは「生乳鮮度にこだわった丹那牛乳」、「丹那特濃乳」、「丹那コーヒー」の3種。近年まで普通の白牛乳「丹那3.6牛乳」瓶装も存在したが、紙パックのみにリストラ。この改廃に同期して、印刷瓶を無地ビンへ変えたらしい。
― 参考情報 ―
函南東部農協の紙栓(1) / 同・(2) (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙栓 (牛乳キャップとは) / 同・紙パック製品 (愛しの牛乳パック)
同・宅配受箱 (路上文化遺産と消火栓) / 丹那3.6牛乳 200mlパック (牛乳トラベラー)
丹那牛乳ができるまで (イズハピじゃーなる) / 丹那牛乳 瓶宅配 (富士山の見える街角)
メイド・イン函南-特産品篇 (函南町公式YouTubeチャンネル)