名古屋牛乳 (1)名古屋牛乳 (1)名古屋牛乳 (1)
名古屋牛乳 (1)

名古屋牛乳(株)
愛知県名古屋市昭和区広路通1-12
石塚硝子製・市乳180cc底面陽刻
昭和30年代初期

名古屋牛乳 (2)名古屋牛乳 (2) 名古屋牛乳 (3)名古屋牛乳 (3)
名古屋牛乳 (2)

名古屋牛乳(株)
愛知県名古屋市昭和区広路通1-12
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和43年頃〜200cc移行まで
名古屋牛乳 (3)

名古屋牛乳(株)
愛知県名古屋市昭和区広路通1-12
大和硝子製・正200ml側面陽刻
200cc移行後〜昭和50年代

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♪とても とっても げんきなの 名古屋牛乳飲んでるの!軽快なコマーシャルソングと、角張ったシャチホコマークで抜群の知名度を誇った、県下随一のメーカー。戦前来およそ75年の歩みも、平成26年に製造より撤退、工場は閉鎖されている。

同時に昭和牛乳(津島市)も現業を廃止。地元資本では恐らく最大手となる、中央製乳(豊橋市)を集約先に据えた、3社連携の事業再編だ。これとは別に、みどり乳業(半田市)も単独廃業を決し、愛知の市乳処理・流通事情は大きく変動した。

名古屋牛乳の電話帳広告(昭和35年)
画像上:名古屋牛乳の電話帳広告(昭和35年)…「世界的水準を誇る設備!鯱のマークの名古屋牛乳」5年前に落成した広路通の新工場をアピールしている。

◆今は大阪生まれの名古屋牛乳

名古屋牛乳さんは改廃に際し、炭酸飲料「ローヤルトップ」以外の自社ブランドを全廃。従前より手掛ける不動産業を中心に、会社法人は存続。乳類の既存販路には日本酪農協同(毎日牛乳)や森永乳業など、他社製品が乗る運びとなった。

得意先を継いだ日本酪農協同は毎日ブランド代替供給の傍ら、一部の出荷先には「名古屋牛乳」の名前を残し、昔と同様のパッケージを仕立てて投入。学校給食や病院向けの200cc紙パックのほか、180ccビン詰めに、1リットル紙パックもあるようだ。

毎日牛乳の赤丸ロゴを添えた新・名古屋牛乳だが、商流は不明。たぶん名古屋牛乳は営業権を手放しており、日本酪農協同にブランド委譲済みと思う。

◆まるっと独占!名古屋牛乳の爆誕

市内の牛乳屋さんは明治6年、星野七右衛門氏の養牛舎を先駆とする。人口増加を背景に市場が確立、各種規制と都市化による郊外移転・統廃合を経て、戦前の頃には販売網を整えた複数の搾乳業者さんらがしのぎを削っていた。

しかし昭和16年、市内操業のミルクプラント7軒は戦時国策で強制合併、共同処理に移行。生産者団体の名古屋酪農販売購買利用組合(※)も合流のうえ、名古屋牛乳統制(株)を設立。間もなく19年、現社名に改称した。

※戦後、名古屋および周辺の酪農家が多数参画、昭和25年に名古屋酪農農業協同組合へ発展。戦時に脱落した搾乳業者(牛乳屋さん)に替わって、名古屋牛乳の運営主体となる。

かつて名古屋市は地元資本に拠らない事業を一切許可せず、大手製菓資本の進出を抑止。名古屋牛乳は市内唯一の乳業で、独占体制を敷いた。

◆GHQ激おこ!明治と森永へ参入指令

ところが終戦を迎え、占領軍がやって来る。昭和23年、GHQ東海軍政部・公衆衛生担当官は名古屋牛乳の工場を視察するや、直ちに県の衛生部長を呼びつけ、「設備も運用も不衛生に過ぎる、すぐ改善せよ、無理なら工場を潰せ」と責め立てた。

さらに「名古屋ほどの大都市に乳業一社は不公正だ」とズバリ指摘、県外資本を容れるよう勧告。明治と森永の代表者を名古屋に集め、県知事、市長、名古屋牛乳の社長さんら同席のもと、2社に市内への新工場建設を命じたという。

◆面目躍如!がんばる名古屋牛乳

行政保護は失われたが、閉鎖的な状況は一変。愛知の酪農(生乳生産)は、明治・森永の基盤育成で躍進。戦前は6大都市最低だった市乳消費量も、相応に拡大した。

加えてGHQの存在は牛飼いに思わぬ僥倖をもたらす。市内のビール会社が駐留部隊向けの特需に沸き、結果ビール粕が大量に出て、これを安価な飼料に転用できた。

戦後、名古屋牛乳の母体は名古屋酪農農協であり、農民連帯色が濃く、組合組織への移行も検討された。しかし明治・森永の進出した都市商圏、企業経営は維持すべきと判断。昭和30年、大資本に引けを取らない新鋭工場の立ち上げに至る。

◆飛び出せ!名古屋牛乳

ともあれ農協を除くと、原点は前記の通り一国一城の主・ライバル関係にあった牛乳屋さんの連合体だ。統制解除後、いま一度の独立開業を目指す者も現れる。

昭和25年に(資)東洋舎牧場(東洋舎田中牧場・中村区高道町)と(株)ニシキ乳業(西春日井郡)、次いで28年には(株)沢田牧場(サワダミルクプラント・西区堀越町)が脱退。それぞれミルクプラントを新設し、自らの製造販売に踏み切った。

名古屋牛乳を割って出たこの3メーカー、既に全社が廃業している。東洋舎は昭和50年代、沢田牧場は同60年代に消滅。ニシキ乳業は平成10年代まで健在だった。

◆掲載瓶・往年流通のビン製品について

(1)番瓶の広告は名古屋ヨーグルト「マヽの美容と坊やの健康に」。同じキャッチを他社(中部牛乳山本牛乳)も使っていた。業界団体のスローガンか、資材問屋の雛形だろう。

時は流れて後継(2)番瓶。この間未回収が多く、数世代をスキップしていると思う。さらに進んで初代200cc瓶と思しき(3)番が登場。平成以降は環状リボン印刷への切り替え、次いで軽量新瓶の採用で何度かデザイン変更が生じた。

お風呂ドリンク世田谷支部・乳業系コーナー (銭湯・温泉・サウナ王国)
2学期最初の給食メニュー (春日井市立篠木小学校)
名古屋牛乳のんでるの〜っ (I love Supermarket)

晩年の容量改訂を受け、全種共通・一合詰めの菊型飾り瓶へ転換。これが最終的なモデルチェンジ。往時のようなレトロ感は希薄だが、いかついシャチホコ君は変わらず、堂々の現役商標として最後まで頑張っていた。(⇒名古屋牛乳-宅配商品 ※IAキャッシュ

― 関連情報 ―
愛知で乳業再編が (愛しの牛乳パック)
まもなく名古屋牛乳が配達されなくなり (大鹿一八 『本日の一言』)
名古屋牛乳 / 四日市酪農 ※コメント欄参照 (牛乳キャップ収集と販売情報)

― 参考情報 ―
名古屋牛乳の紙栓(1) (2) (3) (4) (5) (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙栓 (牛乳キャップとは) / 仕方なく共和散歩 (深爪 ON THE NIGHT)
名古屋牛乳の紙パック製品 (愛しの牛乳パック) / 同・宅配受箱 (むにゅ’s のぉと)
同・ノベルティーコップ (牛乳グラス☆コレクション)


設立> 昭和16年、名古屋牛乳統制(株)として
昭19> 名古屋牛乳(株)へ改称
昭24> 名古屋牛乳(株)御器所工場・平井麟二/愛知県名古屋市昭和区御器所通2-8
           同・鍋屋工場・吉田奈一/愛知県名古屋市北区水切町6-104
昭25> 名古屋酪農農業協同組合が発足

昭28〜30> 「名古屋牛乳(株)」「名古屋酪農農業協同組合」/同上
昭30> 昭和区広路通に新本社・新工場を開設
昭31>名古屋牛乳(株)・近藤新助/愛知県名古屋市昭和区広路通1-12
昭34〜36> 名古屋牛乳(株)/同上
昭37> 共和工場(知多郡大府町、大府町農協より敷地購入)を新設
          春日井畜産農業協同組合(春日井牛乳処理場)を吸収合併

昭39〜50> 同上
昭51前後> 昭和区の本社工場は閉鎖、共和工場に生産拠点を集約
昭51〜56> 名古屋牛乳(株)共和工場/愛知県大府市共和町敷金18
昭58〜平13> 同上/愛知県大府市東新町1-237
平14> 名古屋酪農農協は愛知県酪と合併し、愛知県酪農農業協同組合となる
市乳事業撤退> 平成26年
電話帳掲載> 名古屋牛乳(株)/愛知県名古屋市昭和区広路通1-12 (本社)
                   名古屋牛乳(株)共和工場/愛知県大府市東新町1-237 (閉鎖)
公式サイト> http://www.nagoya-milk.co.jp/

※本社工場が並存した期間の共和工場所在地は割愛

処理業者名と所在地は、[全国工場通覧]・[食糧年鑑]・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



漂流乳業