岡崎市を中心とする西三河エリア一帯に、学校給食や店頭小売で親しまれた往年のローカル銘柄。平成23年、再編合理化で製乳部門を閉鎖、関係事業は名古屋牛乳へ譲渡、「中部」銘は消滅。牧場創始より100年の歴史に幕を下ろした。
平成12年頃にビン詰めは廃止されており、掲載のような印刷瓶装は無くなって久しい。学乳向けの「標語瓶」を、特集-学校給食専用瓶の別項に載せている。
◆創始・市川牧場と同業組合
ルーツは明治45年、市川清二氏が額田郡岩津村(現・岡崎市岩津町)に拓いた市川牧場の搾乳販売に遡る。都市部を離れた貧しい集落は乳幼児の死亡率が高く、母乳に代わる確かな栄養を届けたい…との想いで始めた仕事という。
昭和8年には市川氏のもと、周辺郡部の同業者10名が手を組み、協業体を形成。戦後、これが岡崎牛乳共同処理場組合へ発展。連帯の気運は近在の幸田酪農、上和田酪農ほか農系諸団体に波及、中部酪農農業協同組合の結成も促した。
母体は老舗メーカー集団の色濃く、世情落ち着き、食生活の変化から乳業界に商機が訪れると、新乳館牛乳や岡崎ミルク(ユニオンミルク)、本田牧場(本多ミルク)さんらは共同処理を離脱。各社自営工場を設け、独自の商いに進む一幕もあった。
◆中部乳業(株)の成立
岡崎牛乳の商圏には、戦前に進出した明治乳業が安城工場を構えており、地元の弱小資本が対抗するには、規模拡大が必須の情勢だった。
時期不詳ながら昭和20年代末、挙母町、幡豆郡、碧海郡、蒲郡市域に営業のローカルメーカー多数が団結、岡崎牛乳組合を筆頭に中部乳業協同組合を創立。市乳処理工場を新設のうえ、統一ブランド「中部牛乳」の売り出しを始めていく。
販売量の増加にともなって昭和39年に中部乳業(株)を興し、企業経営に移行。のち平成期の撤退まで西三河エリアに牛乳・乳製品を供給し続けた。
◆特別牛乳で名を馳せる
中部乳業の販路は県内に限られたものの、全国で5社前後しか取り扱っていない種類別・特別牛乳を製造していたことから、しばしばお名前を見掛ける機会があった。
本邦唯一の無殺菌牛乳を手掛ける、北海道・想いやり牛乳さんなどが該当の、贅沢な逸品。生産工程に手間ひまを要し、普通はやれない・やらないアイテムだ。
しかして中部特別牛乳は平成19年に生産中止、直営牧場と専用プラントは解体に至る。滋養豊富を持て囃した時代は既に遠く、健康志向の高まる世相にあって、高脂肪(4%以上)を旨とする牛乳は却って不人気商品となってしまったらしい。
◆うなぎ・しらす干しで名を馳せる
近年は牛乳処理の衛生管理・殺菌ノウハウを活かして多角化が進んだ。鰻の肝串焼き・しらす干し・生八つ橋の製造、また自らうなぎの三河屋を営み、多彩かつ独創的な展開が耳目を集める。特にしらす干しの殺菌は水産業界の評価も高いそうだ。
・中部乳業が殺菌技術応用、しらす加工業に参入
(中部経済新聞)
・岡崎商工会議所会報2008・12月号
中部乳業(株) (岡崎商工会議所)
◆市乳処理事業からの撤退
いっぽう、本業の牛乳は販売量下落、市場価格の低迷、原料高騰、消費者の嗜好変化など厳しい環境を打破できず苦戦、平成23年に処理撤退を決す。
乳製品をほとんど作っていなかった弊社では、他社の乳業メーカーに負けない為に、徹底的に牛乳の風味を大切にしてきた自負があります。
65℃30分殺菌の低温殺菌牛乳
72℃15秒殺菌の高温短時間殺菌牛乳
130℃2秒殺菌の超高温短時間殺菌牛乳と
狭い工場ながら3温度帯の牛乳をお客様のニーズに合わせて供給してきました。
昨今の牛乳離れ、牛乳の販売価格の下落、成分調整牛乳の台頭…当社のような牛乳屋には猛烈な逆風が10年以上続き、ついに幕引きを決断せざるを得ない状況になってしまいました。
(⇒牛乳製造終了いたしました/社員の方による非公式ブログ
2011/01/30) |
「中部牛乳」は無くなったが、他社ブランド(現在は中央牛乳など)の卸しは続行。平成26年、乳販・チルド輸送部門を中部牛乳(株)へ集約し、惣菜・和菓子作りと飲食店経営は(株)三河屋へ。この分社化で中部乳業(株)は解散。50年来の商号にピリオドを打つ。
なお、原料乳供給を支えた中部酪農農協は、平成12年に県下10組合と統合済み。今は愛知県酪農農業協同組合(岡崎支所)に機能を移している。
― 参考情報 ―
「牛乳」と「うな重」と…さらに「シラス干し」
(社員の方による非公式ブログ)
中部乳業のパック製品
(愛しの牛乳パック) / 中部牛乳200mlパック (牛乳トラベラー)
中部乳業の紙栓
(牛乳キャップとは) / 同・紙栓
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ )