県下有数の規模を誇った農協系ミルクプラント。長く地元に親しまれた知多の定番で、古くはそのまま「知多牛乳」の商いだった。自ら工場経営・直売事業に奮闘も、近年の原料高騰と需要/市価低迷には抗えず、平成26年3月末に廃業、独自銘柄は消滅。
運営母体の農協も解散。愛知では同時に名古屋牛乳、昭和牛乳が現業を廃し再編の途へ。ローカルミルク事情は大きく変わっている。
半田市は戦前から乳牛飼養の盛んな、知多半島の酪農発祥地。名古屋を間近に臨む都市近郊酪農は、戦後の多頭飼育で急速に発展。半田、阿久比、武豊、美浜、南知多の牛飼いを中核に、「みどり」は盤石の地位を築いていた。
◆ミツカン酢から始まった牛飼い
知多半島に初めて乳牛が入ったのは明治17年。半田市に拠点を置く(株)中埜酢店(ミツカン酢)の四代目・又左衛門の試みだった。駅前に「愛養舎」牧場を拓き、自家消費の余剰を“ミツカン牛乳”として直売、駅前にミルクホール(愛養舎パーラー)も構えて、当地の先駆となる。
乳業の実務は中埜家と縁故のあった鈴木栄吉氏(覚蔵氏⇒邦雄氏・のち知多牛乳の理事長)に任された。時代は過ぎて昭和9年、県条例(共同処理施設令)に応じ、愛養舎を含む知多東部7つの牧場が任意組合を結成、共同経営に移行する。
◆酪農の発展と「知多牛乳」の誕生
半島各地に類似の小組合が現れ、地区毎に販売圏を確立。この辺りは干ばつ地帯で、後の愛知用水開通まで畑作が安定せず、かえって酪農志向を後押し。森永乳業が名古屋に乳製品工場を設けると、牛乳商売はさらに広がった。
昭和12年、低温殺菌処理を厳命する内務省・牛乳営業取締規則の施行猶予期限が迫る。知多エリア29軒の牧場・市乳業者は、知多郡牛乳小売商業組合にまとまり、半田市泉町に共同処理工場を興して、「知多牛乳」が誕生。
ところが有事のガソリン統制で集乳不能、新組合は頓挫、もとの地区別処理に逆戻り。半田工場は近在の知多牛乳組合が管理も、戦禍に離脱者が相次ぐ。
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画像上:みどり牛乳の製品集合写真(昭和62年)…当時らしい、ほのぼのデザイン。掲載と同じ200cc緑瓶がある。大瓶はまだ無い?「フルーツりんご」はいわゆるりんご牛乳か。[酪農主産地への歩み:みどり牛乳50周年記念誌]より。 |
◆戦後復興・農協の躍進
戦後、祖国へ戻った知多の人々は、酪農復興を目指し乳牛の導入を再開。昭和23年、半田市の酪農家を中心に知多郡畜産農協が発足。同系の諸団体も徐々に合流、組織の陣容が整った32年、知多牛乳生産農協に進展した。
大市場ゆえライバルとの競争は凄まじく、特に森永は昭和24年に市乳販売を開始するや、知多各地の牛乳販売店へ高リベートを提示、系列化を推し進める。40年代には知多牛乳の処理工場・販売権を1億円で買収したい意向も示した。
近隣では大手メーカーへの傘下入り続出も、知多牛乳は独立独歩の姿勢を崩さず、身売り話を謝絶。それを可能にした要因は多頭飼育の成功だった。
◆粕酪農による多頭飼育の実現
半田の酪農は「粕酪農」と呼ばれる。冒頭のミツカンを筆頭に、一帯は食品加工・醸造業が盛んな土地柄。ビール粕、グルテン粕、アメ粕、醤油粕が大量に出る。
粕類はフスマ(小麦ぬか)などの購入飼料に比べて安く、栄養に富み、乳牛の良い餌だ。自給の青草に粕を混ぜて生産コストを削減、乳量・乳質も向上した。
◆名古屋進出・「中京牛乳」の派生
成長過程では「知多牛乳」以外の事業開拓も試みられた。昭和29年、知多郡畜産農協の一部メンバーが名古屋へ進出、中京牛乳生産農協/中京牛乳(株)を別途立ち上げ、名古屋市東区に処理工場を作り、販路一挙拡大を目論む。
しかし売掛金の焦げ付きほか、財政面で行き詰まり、35年に撤退。敷地建物を同業の清和商会(清和牛乳)に売却。地価上昇が幸いし、大損は何とか免れた。
◆「みどり牛乳」へのブランド刷新
順調な発展を遂げる知多牛乳生産農協には、諸組合が次々と合流。昭和37年・南知多酪農組合(内海市乳処理場)、同39年・美浜町西部地区酪農組合が仲間入り。さらに47年、東浦酪農組合(刈谷牛乳)を吸収合併した。
商圏拡張につれ、地名によらない統一ブランドを策定すべき、の意識が高まった。昭和48年、“親しみやすく、格調が高く、新鮮な商品名”を一般公募のうえ、「みどり牛乳」の名前を採用。長く親しまれた「知多牛乳」は引退の運びとなる。
「みどり牛乳50年記念誌」(S62発行)によると<中略>昭和48年に公募でみどり牛乳のブランド名が決定。ところが、すでに九州で「みどり牛乳」が売られており、「九州乳業(株)に了解を得、同社のご好意により決定された」とのこと。知多と九州のみどり牛乳は販売提携等で今も協力関係があるそうです。(⇒二つのみどり/まるかど日記)
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昭和39年から既に「みどり牛乳」を商っていた九州乳業とも縁があるらしい。そうして見ると両社の野太いロゴは似た雰囲気、独特の字形に素朴な愛嬌を感じるところだ。
◆掲載びん・ロゴマークについて
掲載は昭和50年代中期流通と思しき一本。正面のトレードマークは「みどり」の頭文字Mと、ミルククラウンを模したデザイン。52年策定の新商標である。
新たな銘が市場に浸透したタイミングを見計らい、56年には組合自身も「みどり牛乳農協」と改称。平成期に処理・販売部門が独立、みどり乳業(株)が発足した。
晩年のビン製品は大瓶のみ取り扱い。本項に掲載したような200cc以下の小容量ビンは、平成10年に廃止済み、学校給食向けも紙パックへ一本化されている。なお、公式サイトは廃業前の7年間に渡り放置状態で、とうとう更新されずじまいだった。
― 関連情報 ―
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