伊豆大島は日本酪農史上、その黎明期から乳牛飼育・乳製品の製造に取り組んできた、永い伝統を誇るエリアのひとつ。江戸時代に波浮港を開削した功労者・秋広平六氏の末裔・秋広家は、島内随一の牛飼いとして知られ、バター作りも手掛けた。
昭和初期に、離島の営みを見切って本土へ進出。家業の企業化を目指し昭和13年、北多摩郡(現・調布市)に、当乳業を設立する。
◆大島から帝都への進出
大島での牧舎経営は明治30年頃の創始。秋広広之助氏が農事の傍ら乳牛飼育に臨み、のち自らバター製造へ乗り出す。しかし販路の開拓が難しく、すぐに生産過剰に陥ってしまう。
そこで昭和元年、飛躍を期して全事業を本土・東京に移転。まず瀧野川区(現・北区)に牛舎を借りて暫定運用。翌年に千葉県東葛飾郡(現・市川市)に「衛生牧場」を拓き、当地へ(株)衛生ミルクプラントを併設、拠点確保に尽くした。
首都圏市場は大手資本の伸長が目覚ましく、立ち上げた工場は昭和8年、明治製菓系列の朝日牛乳(株)に売却を余儀なくされる。いっぽう同年、江戸川区に江東練乳商会を興し、練乳・生クリームの製販に着手。あくまで独立起業を志向した。
◆秋広畜産興業に発展
力を蓄えて昭和13年、秋広畜産興業(株)を設立。調布に本社と工場を構え、最盛期は千葉の木更津・館山、さらに茨城の古河にも分工場や集乳所を置く厚い陣容。販売網は東京一円に広がり、業績は極めて好調だったと伝わる。
秋広平六家の6代目 豊之助の四男 義之は進取の気性に富んだ人であった。大東亜戦争中、府中に秋広牧場を開き、戦後牛乳不足のときは、秋広牛乳を日本赤十字病院に納入、都内各地に販売店をを設け、後、名糖の重役として迎えられた。
―「かんじろのタイムスリップ」(閉鎖)より引用。出典は大島観光協会・宮川鎮夫氏「波浮の港」。 |
しかし業界の競争激化を受け、同族経営に限界を感じ、協同乳業(名糖牛乳)が東京に進出した昭和31年に営業譲渡、同・調布工場へ転換。翌年のブランド統合で「秋広」銘は消滅。生産能力に劣る調布工場も、程なく閉鎖となった。
戦時統制下の中絶期を挟んで、戦後は早期に系列化・直販より撤退。紙栓その他の残存品はあまり見掛けないが、東京都台東区の「下町風俗資料館」に秋広牛乳の牛乳箱が展示されている。瓶と同じく稲穂(麦?)のマークが力強い。
◆大島秋広・波浮港農協
本土の企業展開とは別に、大島では家業として搾乳・処理・販売事業の命脈が保たれていた。古い牛乳工場名簿に「大島秋広」の屋号で記録が残っている。
秋広家のご子孫が往時の想い出を綴った[波浮の港](平成22年・秋廣道郎著)によると、「調布で秋広牛乳を経営していた叔父の義之の援助を受け、長兄の明彦が波浮で始めた牛乳屋さん」があり、島に牛乳・バターを商ったという。
一時期は秋広畜産・調布工場へ、生乳や加工原料の船便出荷も行った。後年、製造販売は波浮港農協が引き継いだと思われるが、その業態や沿革は不詳。島内の4組合が合併の折、昭和48年前後に市乳処理部門は廃止されたようである。