かつて浅草に冷菓工場・ミルクプラントを構えた、下町の中小メーカー。各種お願い事項を書き入れた瓶に、素朴な風情が漂う。競争激しい首都圏市場にあって販路拡大は難しかったと思われ、昭和34年に会社は解散、銘柄は消滅した。
しかしその後も他の飲食事業は脈々と続いており、現在は駅ホームの立ち食いそば店や、和菓子の製造直売がご盛業である。
◆アイスの駅売り・片平食品の設立
創業者の片平信次氏は、戦後間もなくアイスキャンディーの製販に着手。昭和21年、鉄道弘済会(国鉄)の傘下に入って、引き続き工場長を務める(⇒関連:冨士アイス/弘済食品)。
昔から駅構内での商売を手掛け、戦時中絶を経て復帰の流れか。急場凌ぎの時代を乗り越えて昭和27年、片平食品(株)を新規に設立。前後して牛乳類も作り始めた。
昭和28年の市乳処理は年間214石の記録が残る。掲載の一合瓶(180ml)で日産600本くらいの出荷。同時代・同商圏の明治はその約40倍、森永で22倍、保証牛乳8倍、西多摩牛乳は5倍の量を捌いていたから、規模は小さかったと言える。
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画像上:東京飲用牛乳協会の新聞広告(昭和31年)…都下の業界団体がスポーツ紙に出稿した、消費促進のPR広告。当時、協会に加盟していたメーカーが、ビンのイラスト仕立てでズラリと並ぶ。森永牛乳、雪印牛乳、秋広牛乳、西多摩牛乳、片平牛乳、興真牛乳、保証牛乳、明治牛乳。 |
◆市乳処理撤退・おそばとまんじゅうへ
片平氏は弘済食品販売(株)取締役や、日本アイスクリーム協同組合の理事長など、各要職をご兼任。とはいえ乳製品に関しては、大手・専業の台頭で自社商いは思うに任せず、早々に見切りをつけたらしい。昭和34年、片平食品を解散している。
今は昭和30年?に発起の別会社・上野弘食(株)および(株)フードギャラリーとして事業を展開。JR駅構内の「そば処」(立ち食いそば店、北千住・亀有・金町駅ほか)と、谷中福丸饅頭(10円まんじゅう)の看板で、計11店舗を経営する。
◆掲載瓶の標示と形状特性について
「空きビンは腰掛の下にお置き下さい」の文言は、駅売りたる由縁。車窓からの投げ捨てを防ぐとともに、定期的に列車の座席の下をさらい、まとめて回収する手筈だった。
底面に打刻の西暦4桁で、昭和31年の製瓶と分かる。この手合いの牛乳瓶は戦前〜戦後まで広範に利用されたが、ほとんどは王冠/機械栓による封緘。一合詰め・細口長身の印刷瓶で、かつ小口径の紙栓を採用したタイプはちょっと珍しい。
耐久性と洗浄の都合、数年後の計量法改正で、現在のような広口(中口)瓶が一気に台頭する過渡期にあたる。掲載品は流通当時からして既にマイナーな瓶装だったはずだ。(⇒参考:牛乳瓶の全体形状/開口部形状の種類と変遷について)