雪印牛乳 雪印牛乳
雪印乳業株式会社
東京都新宿区本塩町13(東京本社)
北海道札幌市東区苗穂町六丁目1番1号(札幌本社)

www.snowbrand.co.jp www.meg-snow.com (雪印メグミルク株式会社)

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<クロバー牛乳〜分裂した商標>

“存続会社”はクロバー印、“第二会社”は雪印…敗戦後、GHQは巨大独占企業の分割・財閥解体を指令、日本政府は過度経済力集中排除法(集排法)を公布し、各分野における単一企業体の寡占的経済支配解消に乗り出した。

雪印乳業の前身、北海道酪農協同(株)は、国内のバター及びチーズ市場のシェアが極めて高く、昭和22年に集排法の該当企業として指定されてしまう。組織が分割されれば営業力の衰退、弱体化は必至の情勢。様々なロビー活動を通じ、全社を挙げての指定解除運動が展開された。

一方で、競合する明治乳業と森永食糧工業(森永乳業)は、指定解除に反対の姿勢を鮮明に打ち出す。戦時統制下、明治・森永の所有だった工場が北海道酪農協同側に合併されたのは強権の発動によるもので、解体・旧資産の返還は当然とし、集排法から逃れようとする雪印を大いに牽制した。

どろどろとした思惑が交錯するなかで事態は急転直下、時の法務総裁が「雪印の重役に、公職追放者がいる」旨を伝え辞職勧告を出すに至り、北海道酪農協同は会長以下7重役が辞任。昭和25年、抵抗むなしく組織は二分割された。

結果は“存続会社”として北海道バター(株)の設立、“第二会社”として雪印乳業(株)の設立。また、明治、森永へそれぞれ北海道の一工場を譲渡するというもの。社名が表す通り、「雪印」の商標は“第二会社”の所有となり、“存続会社”は存続と言いながらも ブランド的には丸腰の状態で出発する羽目になっている。

「面白いバターとチーズの話」のパンフレット(昭和11年)

◆クロバー牛乳の誕生とクロバー乳業への改称

クロバー印の出自・展開については<ロゴマーク・ブランドの変遷>に纏めた通りである。北海道バター(株)発足当初は、消費者に馴染みがある関西・近畿圏を軸足にバター・チーズの生産販売がメイン。市乳事業が始まるのは昭和29年のことだ。


画像左:パンフレット「面白いバターとチーズの話」(昭和11年)
北海道製酪販売組合連合会時代のもの。この頃はまだ、大日本乳製品(株)から譲り受けた「クロバー印北海道バター」と、「雪印北海道バター」が併売されているのが判る。また、製品一覧に「雪印牛乳」はなく、「酪連牛乳」がリストされている。


きっかけは、「いずみ牛乳」を商っていた大阪府酪農業協同組合への出資。同組合は出資金を元手に関西酪農協同(株)を設立、北海道バターの提携に応じて「いずみ」銘を廃止、「クロバー牛乳」の委託生産を開始した。これが日本初の「クロバー牛乳」である。


画像右:クロバー北海道バターのパッケージ(昭和30年頃)・分割後の北海道バター(株)によるもの


クロバー北海道バターのパッケージ(昭和30年頃)

ところが僅か一年後の昭和30年、関西酪農協同は完全な独立経営を希望して「クロバー」銘の委託を返上、新ブランドを立ち上げる。これが現在の「毎日牛乳」である。流れだけ追うと、何だかひどい話である。

提携を打ち切られた北海道バターは独自の市乳事業を計画。既存工場の増設で対応し、改めて「クロバー牛乳」の販売を開始する。その後、怒涛の宣伝攻勢もあってブランドは飛躍的に成長。営業圏を四国・東北へも伸ばし、積極的に中小ミルクプラントの買収を行った。個別の銘柄は判然としないが、秋田ミルクプラント(秋田市酪農農業協同組合)、香川郡畜産農業組合連合会、滝野乳業有限会社(兵庫県)、岡山県北部酪農協などが昭和30代初期にクロバー傘下へ収まっている。

ブランドの認知度が向上したのに合わせ、昭和32年にはクロバー乳業(株)へ改称となった。

雪印ミルクキャラメルのパッケージ・雪印乳業・クロバー乳業合併記念(昭和33年)

◆悲願達成・雪印との再合流

隠忍自重、不承不承に分割を受け入れた雪印だが、水面下では生き別れになった両社の早期合併・合流を模索、既に昭和27年9月にはその方向性を固めていた。同30年、集排法は当初の目的を達したとして廃止。一つ屋根の下、涙の再会を目指し今度は両社を挙げての合併推進運動が展開された。

実現すれば、集排法による分割会社の再統合という初めてのケースになる。その許認可は公正取引委員会が握っており、両社は懸命に請願・街宣・ロビー活動を行うが…ここでまたしても明治・森永連合が立ちはだかる。

公正取引委員会の公聴会で、明治・森永はあらゆる側面からクロバー・雪印の合併に異を唱え、市場の寡占を問題視。独禁法に基づく違反申告書を提出して強硬に反対しまくった。一方で、農協系の団体は合併を強力に支持・これを援護した。


画像左:雪印ミルクキャラメルのパッケージ・雪印乳業・クロバー乳業合併記念(昭和33年)

昭和33年、最終的には現地調査を経て クロバー乳業(株)と雪印乳業(株)の統合はついに承認され、両社は新しい雪印乳業(株)として再スタートを切るに至った。それから程なくして「クロバー印」は再度の眠りにつくことになる。


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<雪印製品のいろいろ>

雪印乳業の社史は経営・歴史の解説は充実しているものの、自らの市乳製品のラインナップに関する記述はやや淡白な印象で、意外にもそれほど詳しいことは書かれていない。明治・森永の社史の場合、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳、栄養強化系加工乳の展開についてささやかながら独立項を設けているほどなのだが…

雪印乳業のしおり/乳製品一覧(昭和30年代初期〜中期頃)
雪印乳業のしおり/乳製品一覧(昭和30年代後期)

◆フルーツ牛乳の発売(昭和33年度)

上掲の乳製品一覧で確認できる通り、発売当初はフルーツ牛乳の専用瓶が用意されていた。この写真では判らないが、裏面に可愛らしい少年少女の顔がプリントされている。フルーツ専用瓶装は昭和40年頃に廃止され、白牛乳やコーヒー牛乳と同じ瓶、つまり(1)〜(2)番瓶に統合されている。フルーツ登場前は、同系統の乳飲料として 「オレンジミルク」 なるものがあったらしい。

◆コーヒー牛乳の発売(昭和30年度)

王冠細口瓶の「コーヒーミルク」が出発点。32年度になってから、(1)〜(2)番瓶に詰めた「雪印コーヒー牛乳」の生産販売が開始された。

昭和34年頃までは、地域別に両方とも流通していたらしい。細口瓶の乳飲料は昭和初期〜戦後までメジャーな瓶装だったが、現行と同様な“広口瓶”の推進・普及により絶滅している。

画像右:雪印コーヒー牛乳の中吊り広告(昭和40年)

雪印コーヒー牛乳の中吊り広告(昭和40年)

雪印ミネラル牛乳の雑誌広告(昭和44年)


◆雪印ミネラル牛乳の発売(昭和33〜34年頃?)

雪印乳業が売り出した栄養強化系加工乳の第一世代は、昭和32年の「スーパー牛乳」である。しかし定番となったのは、後発の「ミネラル牛乳」のほうだろう。発売時期について言及した資料(記述)を見つけられなかったものの、33年から34年の頃と推測している。

初代のデザインは不明。昭和37年に、左の広告と同じデザインの専用六角瓶(のちに八角瓶)が採用され、45年の白牛乳200cc移行期に、汎用共通瓶装となっている。

次いで昭和48年には「ファミリア牛乳」へ改称、ミネラル銘は勇退。姉妹品スーパー牛乳もこの時期で廃止となり、「雪印つよい子牛乳」が登場する54年頃には、ファミリア銘もついに姿を消した。

画像左:雪印ミネラル牛乳の雑誌広告(昭和44年)


◆雪印パイン牛乳(昭和37年)

コーヒー、フルーツ等の乳飲料は各社とも上々の売り上げを達していたが、生産業者が増えるに従い頭打ちとなり、消費者もその味に飽き始めている…打開策として、昭和30年代後期〜40年代には毛色の変わった果実風味の乳飲料が色々と現れた。

パイン牛乳は昭和37年の発売。ポスト・フルーツ牛乳を狙っていた?と思われるが、長続きはしなかった。森永乳業も「森永マンダリン」なる短命商品をこの時期に売り出している。定番を作るのは難しい。元祖は不明だが、コーヒー、フルーツの後からラインナップに定着したのは、いちご牛乳くらいだろう。バナナ・オレは際どい?かろうじて滑り込んでいる、といった印象である。

この流れを継いでいるのが主にコンビニ売りのミルク系500mlパック飲料で、短期間生産を念頭に置いた一発芸的なバリエーションが数え切れないほど存在している。


画像右:雪印パイン牛乳のポスター(昭和37年)


雪印パイン牛乳のポスター(昭和37年)

◆雪印の市場シェア

社史 [雪印乳業史] に掲載された、自社の市場シェア(全国に占める生産比率)によると…

・昭和33年度 「飲用乳」9%、「バター」50%、「チーズ」80%
・昭和42年度 「市乳」19%、「バター」65%、「チーズ」63%
・昭和48年度 「市乳」20%、「バター」59%、「チーズ」62%
・昭和55年度 「市乳」17%、「バター」46%、「チーズ」47%
・平成3年度 「飲用牛乳など」19%、「バター」35%、「チーズ」55%

創業事業のバター、チーズはシェアを下げつつも圧倒的な占有率で、出遅れた市乳も昭和30年代中期〜後期に爆発的な成長を遂げたことがわかる。乳業の商材で最も早く換金でき、回転率が良いのは牛乳である。鬼に金棒といったところか。


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