雪印牛乳 雪印牛乳
雪印乳業株式会社
東京都新宿区本塩町13(東京本社)
北海道札幌市東区苗穂町六丁目1番1号(札幌本社)

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<雪印乳業史・全六巻の眩暈>

[雪印乳業史] 怒涛の全六巻から面白そうな?エピソードを要約掲載した。この社史は昭和30年の第一巻刊行から平成7年の第六巻に至るまで、それぞれ言及する時代を区切って都度上梓されたもの。気合入り過ぎである。

◆曜日キャップの偽装問題

かつて牛乳の紙栓は、製造日付ではなく “販売する曜日” を標示して出荷されていた。そのため、店頭に並ぶ頃合いを見越してのメーカー自己申告が罷り通り、タイミングによっては市場へ “先付曜日” の牛乳が出回る始末だったという。当然これは消費者の不信を買い、衛生行政上の問題もあったので、厚生省は昭和43年に “製造日付制” を決定。44年に適用となった。
雪印乳業の曜日標示キャップ(昭和30年代中期)
画像右:法令改正による牛乳キャップ標示変更の新聞広告(昭和44年4月)
画像左:雪印乳業の曜日標示キャップ(昭和30年代中期)


◆紙パック黎明期の話

協同乳業の社史を引用しつつ、初期テトラパックの失敗について触れている。しかしその後、紙パックがじわりじわりと侵食しリベンジを果たす様が具体的な数値で示されており面白い。

法令改正による牛乳キャップ標示変更の新聞広告(昭和44年4月)

契機は昭和37年、テトラパック社が東京に日本テトラパック株式会社を設立、正式に日本進出を果たしたこと。まず、当の雪印乳業とグリコ協同乳業の2社が導入、生産販売を開始。次いで明治、森永、大山乳業(鳥取県)オーム乳業(福岡県)が続いたらしい。(⇒日本テトラパック40年史/同社の公式サイト内)

当初は様子見を決め込んだ業者が多かったようで、切替速度は意外に遅い。昭和42年末時点で、全国のワンウェイ容器(紙パック)充填装置の総設置数は50台前後に過ぎなかった。

協同乳業のテトラパック大失敗の時も同じことが言われているが、理由としては包装資材が瓶に比べ割高だったこと。具体的なコストは、一合(180cc)瓶で1本56銭、これが紙容器になると1(テトラ)パックあたり1円88銭にもなったという。当時の平均物価では牛乳が一本21円の時代。乱暴に括ってしまえば、それぞれ5〜6倍にすれば今の感覚に近いだろうか。

しかし従来の配達所方式では消費拡大を見込めないという乳業各社の危機感に加え、農林省もワンウェー容器振興策を打ち出し紙パック採用を後押しした。今や環境問題で瓶装が再注目されているご時世だが、昔は国が積極的に使い捨て文化を推奨したこともあったわけである。

昭和44年末には充填装置の設置数が100台を突破。大型スーパーマーケットの登場、それに伴う紙容器牛乳需要の発生、利用増加による紙パック関連資材のボリュームディスカウント効果…後は坂道を転げるように、牛乳瓶は主役の座を奪われていく。

農協牛乳の1リットル紙パック(平成16年頃)

◆農協系ミルクプラントの勃興

オレンジの1リットル紙パックは、日本で最も親しまれた牛乳のパッケージのひとつだろう。その起こりは昭和47年4月、全国農協牛乳直販(株)設立を皮切りに、全国各地で農協系牛乳の進出が始まったことだった。

大手とは異なり自前の配達店網・宅配ルートを持たない農協系ミルクプラントは、いきおい量販店(スーパーマーケット)市場に殺到した。そこで不当廉売まがいの安売り攻勢で積極的拡販を展開、宅配牛乳減少に拍車をかけた。特売品の常連として牛乳が登場するようになったもこの頃からである。

そんな「農協牛乳」も、雪印の不祥事に伴う日本ミルクコミュニティ設立に併呑され、今はもうない…筈だったが、当初目論見のメグミルク統一を果たせず、まだ存続しているようだ。


画像左:農協牛乳の1リットル紙パック(平成16年頃)

◆雪印と合併・統合した農協/資本

吸収された組織名はそれぞれ下記の通り。彼らがどのような銘柄を商っていたか?の記録がないのは残念なところ。

<昭和30年代初期>
第一牛乳(株)・東京都板橋区、旧・東京保証牛乳(株)/九戸酪農業協同組合・岩手県久慈市/札幌酪農牛乳(株)・北海道札幌市/大沢乳工業・埼玉県熊谷市/有馬乳業・神奈川県川崎市/豊川牛乳協同組合・愛知県豊川市/東濃酪農農業協同組合連合会・岐阜県恵那市/長崎県南部酪農農業協同組合・長崎県島原半島有馬/浜口牛乳処理場・長崎県浜口町・(有)酪連ミルクプラントの経営/長崎県酪農業協同組合・長崎県佐世保市

<昭和30年代中期>
広谷農業協同組合・広島県福山市/三愛酪農業協同組合・青森県弘前市/花巻牛乳(株)・岩手県花巻市/栗原酪農業協同組合・宮城県栗原郡・事業提携/福岡地方酪農連合会・福岡県/霧島集約酪農連合会・宮崎県都城市/北日本酪農協同組合・新潟県新発田市/西播酪農協同組合・兵庫県姫路市/(有)太田牛乳・兵庫県/岡田牧場・徳島県/由利酪農農業協同組合・秋田県/西滝沢駅前農業協同組合・秋田県/雄勝中央酪農業協同組合と雄勝西部農業協同組合・秋田県/その他、秋田畜産協同舎など20数軒に及ぶ中小プラント業者の事業を買収

◇秋田協同乳業(株)・秋田県秋田市

経営不振から農林中央金庫を介して譲渡の申し入れがあり、事業協定書を調印。しかし昭和36年、協定を一方的に破棄、他乳業との提携に踏み切った との記載。同社は現在、森永乳業の連結子会社。森永側の社史には 「思案の末 当社への申し入れとなった」 とある。当時の土壇場の判断で、雪印はソデにされたのだろう。(⇒(秋田)協同牛乳/東北地方の牛乳)

◆企業史の最多記録?

雪印の名前で発行された社史等の書籍群は驚くほど数が多い。まず “本流” の [雪印乳業史] だが、これがなんと全六巻の歴史スペクタクル大巨編。一冊あたり最低でも広辞苑半分以上の厚みがある代物だ。加えて更に [雪印乳業沿革史] という別冊の年表が付属している。乳業に限らずここまで気合の入った企業史は異例だろう。そのほかにも確認できているだけで…

・昭和10年 「酪連十年史」 (北海道製酪販売組合連合会時代のもの)
・昭和39年 「雪印乳業健康保険組合二十年史」
・昭和50年 「写真でみる雪印乳業五十年」
・昭和51年 「雪乳労三十年史」 (雪印乳業労働組合三十年史)
・昭和51年 「雪印こどもの国牧場10年史」
・昭和53年 「雪印乳業技術史・バター編」 (恐らくチーズ編もある)
・昭和60年 「酪農風雲録-雪印酪農集団の足あと」 (上下巻)
・昭和60年 「牛よもやま話」 (長谷川栄次著・雪印乳業創業60周年記念)
・昭和63年 「雪印乳業営業史」 (全五巻!)
・平成7年 「雪印乳業スキー部50年史」
・平成8年 「乳酸発酵の文化譜」 (雪印乳業健康生活研究所)

全部揃えれば20冊超、しかも例外なく分厚くなりがちなジャンルの本ばかり。書棚を埋め尽くすこと請け合いである。


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<雪印牛乳は眠れない〜メグミルクへの旅立ち>

平成12年4月、北海道広尾郡大樹町。雪印乳業の大樹工場は、いつものように脱脂粉乳を作っていた。いつもと違っていたのは その最中、工場の電気室に巨大な氷柱がズドンと落下、破損した設備の復旧作業を含めておよそ4時間に渡る停電、つまり冷却機構の断絶を引き起こしたこと…

広大な北の大自然がもたらした、とでも言うべき “ブドウ球菌・エンテロトキシンA型”。製造工程にぬくぬくと滞留した原材料への、とんでもないプレゼントだ。停電事故の間、ライン中に残存したそれらは廃棄されたのか、されなかったのか?とにかく結果的に、ようやく作り出された脱脂粉乳は 誰も気づかなかったけれど、毒素に汚染された状態であった。

◆推定実被害者1万3千人・未曾有の集団食中毒事件

同年6月、大阪府大阪市都島区。雪印乳業の大阪工場は、いつものように色々な乳製品を作っていた。いつもと違っていたのは、原料として(大樹工場製の)汚染脱脂粉乳が用いられたこと。「低脂肪乳」「のむヨーグルト毎日骨太」「のむヨーグルトナチュレ」、そして委託製造の「コープのむヨーグルト」は、誰も気づかなかったけれど、当然汚染された製品群に化けてしまう。

そして関西圏の1万5千人が嘔吐し、下痢をした。裁判で直接の因果関係は否定されたが、入院先で老婆がひとり亡くなった。雪印製品が原因の症状と推定されたのは、最終的には13,420名であった。(⇒厚生労働省による最終報告概要

雪印大阪工場ご案内/施設概要(昭和30年代中期)

画像上下:いずれも 「雪印大阪工場ご案内」 より、施設概要と牛乳の製造工程を示した部分(昭和30年代中期)
“牛乳室” 写真中の瓶や通い函は全てクロバー銘。別頁の製品集合写真には、雪印牛乳と並んでクロバージャージー牛乳も陳列されており、両社再合併後もしばらく併売だったことが判る。事件発生時とは比べようもないが 「完全自動装置によって衛生的につくられています」 との説明が悲しい。

雪印大阪工場ご案内/牛乳室(昭和30年代中期)

その後の更なる混迷ぶりは、まだ記憶に新しい。大阪工場では設備保守マニュアル無視の手抜き洗浄が発覚。消費期限切れ牛乳を小売店から回収し、加工用原料として再利用する乳業界の “節約術” が明るみに出ると、マスコミの面前で「わたしは寝てないんだ」と取材攻勢に苛立つ社長の姿も晒されてしまった。

不利な要素ばかり続々と表出、ごたごた覚めやらぬ平成14年には、子会社である雪印食品(株)の違法行為が暴かれる。狂牛病問題で消費者に敬遠され、不良在庫を抱えた食肉業者に対する政府救済策の悪用、いわゆる“雪印牛肉偽装事件”である。オーストラリア産牛肉を国産パッケージに詰め替え、国産牛肉買取り制度の補償金をせしめるという完全な詐欺だった。

個々人の食生活に密着した大企業のブランドイメージが、ここまで分かり易く地に堕ちる例はなかなかお目にかかれない。事実、プレスリリース上の失態を含む一連の不祥事は、「失敗学」的観点の好材料となっており、ほとんど永遠に語り継がれてしまうだろう。

事件後一時期は量販店を中心に雪印製品の撤去が進み、平成12年7月の売り上げは同年比で実に8割減。消費量は下降の一途、しかも安売りの定着した市乳というジャンルは大資本ですら不採算部門と言われる状況下での、致命的事件だった。

◆壊れてしまった雪印の欠片は

持ち堪えられなくなった雪印は、大規模な組織の再編を迫られる。雪印乳業本体は、創業事業のバターとチーズの生産販売に特化。食中毒を引き起こした市乳部門は切り離され、全農(全国農業協同組合連合会)及び全酪連(全国酪農業協同組合連合会・ジャパンミルクネット)と大統合を果たし、日本ミルクコミュニティ(株)・メグミルクブランドとして仕切り直しの発足となった。一時は協同乳業(名糖牛乳)も合同を検討したが、自社のメリットに乏しいため見送ったという。

アイスクリーム事業はロッテ、雪印ローリー(雪印ラピオ)はカゴメ…完全売却や分社化、他社からの出資支援など形態は様々だが、その他にも多くの事業が分割分離され、雪印グループは往時の集排法適用時を遥かに凌ぐ喪失感を味わう羽目になる。雪印食品は会社自体が解散、市乳事業の整理統合に際しては多くの工場が閉鎖となってもいる。(⇒Wikipedia-雪印乳業

滑り出しは好調と伝えられたメグミルク。しかしブランドの目新しさ・新鮮味が薄れ始めると一転苦境に転じ、更なる工場閉鎖、従業員の整理を柱とする第二次再建計画が飛び出した。現在、市乳業界では明治・森永に後塵を拝する三番手。

画像右:雪印工場見学記念のしおり(昭和30年代中期)

雪印工場見学記念のしおり(昭和30年代中期)

◆過去にも起こしていた集団食中毒

雪印にとって、これが初めての大失態ではない。昭和30年3月、当時の北海道・八雲工場で生産された学校給食向けの脱脂粉乳汚染により、都下9小学校・2000人の児童を巻き込む集団食中毒を引き起こしている。奇しくも同じ脱脂粉乳、その原因も何の因果か「機械の故障と停電事故の悪条件が重なったもの」で、大阪の事案と一緒に蒸し返されることもあった。

しかし昭和30年で、乳業の起こした中毒事件といえば森永の砒素ミルクを連想しないわけにはいかない。乳幼児130名を死に追いやり、なお大勢を後遺症で苦しませたあの事件を記憶している方ならば、きっとこう思ったはずだ。「あれが平成12年に起こっていたら雪印どころの騒ぎでなく、森永乳業は崩壊して雲散霧消していただろうな…」 と。

メグミルクのロゴマーク(平成15年)

◆雪印牛乳は消えたのか?

平成15年、こけら落しでスタートした日本ミルクコミュニティ(株)は当初、「雪印牛乳、農協牛乳、全酪牛乳の各社既存銘柄を廃止、“メグミルク” に一本化する」と宣言していた。

画像左:メグミルクのロゴマーク(平成15年)

宣言はしてみたものの、いずれも伝統の商標。一朝一夕に生まれた名前ではない。旧雪印側は強い存続要望を出し、農協牛乳など地域ごと親しまれ定着したブランドを手放す営業上のデメリットも叫ばれた。そして実際に、雪印銘はどっこい生きたままメグミルク時代に突入する。(⇒日本ミルクコミュニティ発足後・名古屋地区の宅配商品案内パンフレット/牛乳キャップとは?)

「撤廃」の意思表明は世論へのマイクパフォーマンスだった…というのは下種の勘繰りだろうか。結局のところ平成18年現在も、一部の販路ではそれぞれの銘柄が “日本ミルクコミュニティ製” になっただけで、逞しく生き延びている。レジスタンスの如く局所的に展開するロートル銘柄は公式サイトに全く掲載されていないが…実態として、メグミルクへの衣替えは道半ばのようすである。

むしろ「雪印」銘などは復調傾向すら窺える。例えば2004年頃の公式サイトでは、いわゆるコーヒー牛乳は“MEGCOFFEE”のみの掲載であった。ところが現在は全て「雪印コーヒー」に置き換わっていたりする。何とも煮え切らない?雰囲気だ。

◆事件後の様々な影響 

事件の余波は、当然同業他社にも及んだ。小売店の自主回収で消えた雪印製品の “穴埋め需要” でイレギュラーな増産を強いられた会社がある一方で、大阪・京阪牛乳は牛乳へのネガティブイメージ (「異臭」クレームを受け自主回収を行ったが、後に販売店の管理に問題があったと判明した) で売り上げが低迷、自家製造中止を決断する。

牛乳の異臭騒ぎも続出。雪印の没落を目の当たりにした乳業各社は恐れおののいて、設備の殺菌頻度・使用薬剤濃度を高めた。結果、クレンジングし切れず消毒液の混じった牛乳を出荷するというドタバタ劇である。石川・北陸乳業厚生労働省の「総合衛生管理製造過程認可」辞退・取り消しにまで至れば、異臭で返品となった牛乳を再利用、世間から詰られたジャージー高木乳業はいきなり廃業・全従業員を解雇して労使問題に発展した。

事件後しばらく続いた食品全般に対する消費者の疑心暗鬼は、異物の混入や異臭を絶対に許さなかったし、(非乳業)企業も、ちょっと何かあれば驚くほどのフットワークで全製品を回収、新聞は連日のお詫び広告で大いに賑わった…。

◆コーヒー牛乳、フルーツ牛乳の禁止

脱脂粉乳から作られる低脂肪乳を、果たして「牛乳」と呼べるのか?事件は思いもかけぬ波紋を描きつつ更なる不信感を生み、製品/製法そのものまでが消費者から糾弾される局面もあった。とばっちりを食ったのがコーヒー牛乳やフルーツ牛乳などの、種類別・乳飲料である。端的に言えば、「成分や製法から考えて、これって牛乳と呼んじゃいけないよね!」 という突っ込みである。

実はこうした曖昧な呼称に対しては、随分前から疑問視する声があった。<雪印乳業史・全六巻の眩暈>で触れた「曜日キャップの偽装問題」に端を発し、昭和40年代半ばの頃 乳製品について誤解を招く標示を改めようという機運が高まったのだ。

コーヒー牛乳・フルーツ牛乳に替わる商品名は、社団法人・全国飲用牛乳協会が信頼回復の自主的処置として “ペットネーム(愛称)” の策定を行った。一般公募の結果、乳糖(ラクトース)を略した 「ラクト・コーヒー」「ラクト・フルーツ」 に決定、業界ルールとして昭和44年から全国の乳業が使い始める。(⇒「ラクトコーヒー」の「ラクト」って何だ?/岡山牛ビン倶楽部)

しかしラクトの使用は “紳士協定” に近いものであって、“違反” に対する罰則などはない。雪印の事件をきっかけに再び見直しの議論が巻き起こると、平成13年に表示規約が改正され、コーヒー牛乳・フルーツ牛乳の使用は全面的に禁止となった。(⇒公正取引委員会・「飲用乳の表示に関する公正競争規約」の一部変更の認定等について

昨今は単純に 「ブランド名+コーヒー/フルーツ/いちご etc...」 もしくは 「コーヒー/フルーツ/いちご etc...+ラテ」 での命名が主流となっていて、“ラクト” を冠した乳飲料はそれほど多く見掛けない。


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