地場35組合からなる農協連合が、10数年ほど商ったローカル銘柄。「ノーコー」の由来は農工利連の団体名称、乳質濃厚の含意。昭和34年の新工場建設に際し、和光堂・三協乳業(サンキョー牛乳)と業務提携。育児粉乳や練乳、バターの受託製造も手掛けた。
同40年、工場施設・営業権一切をサンキョーに売却。農工利連は市乳事業より撤退、「ノーコー」銘も間もなく廃止。その後、平成12年に至って三協乳業は解散。長野工場は同居していた和光堂の生産部門子会社が引き受け、今なお稼働中だ。
掲載(1)番は草創期の一本。牛乳瓶を抱えて微笑む赤ちゃんの表情がミステリアス。(2)と(3)は晩年の2種。ノーコーならぬ「和光ミネビタ牛乳」は、文字通り和光堂に属したブランド。仔細はサンキョー系列・北部酪農協(上伊那郡/岡谷市)の項に譲る。
◆長水農工利連・搾油工場の経営難
長水(ちょうすい)地区は、長野市と上水内(かみみのち)郡の一帯を指す。特産品の大豆・菜種の搾油精製を主眼に、昭和23年、長水農工利用農業協同組合連合会が発足した。
工場建設し鋭意操業も、25〜26年頃には配給統制が漸次緩和、経済も復調。大手油脂メーカーおよび輸入製品が出回るようになり、早々に行き詰まる。なにしろ地元の収穫期を過ぎると全く稼働できず、安定運営は望むべくもなかった。
◆油屋から牛乳屋さんへの転身
ちょうどその頃、当地では従来の畑作・養蚕から、酪農・果樹栽培への転換が増加。乳牛飼育は明治乳業長野工場(吉田東町)が、新規集乳基盤開拓のため積極的な導入奨励を行い、急速な伸びを示していた。
特に安茂里村は牛飼いがあまねく普及。昭和26年、村農協がミルクプラントを据え、市乳の処理販売に乗り出す。搾油工場が頓挫した長水農工利連も牛乳に活路ありと見て、先行展開した安茂里を含む傘下組合と合議に臨んだ。
農工利連は乳牛飼養頭数を3年で5倍増させる計画を練り、農村漁業特別融資金を得て牛乳工場の新設を決定。昭和27年に裾花工場を完成し、「ノーコー牛乳」が誕生する。
◆原料乳争奪戦を制す
とはいえ、既に大半の農家は明治乳業とか、長野牛乳商業協同組合(長野牛乳)と契約済み。農工利連は組織的な動員をもって原料乳の集荷を推し進める。新たなメーカーが突如出現の格好で、初期は競合トラブルが絶えなかった。
連合会傘下団体の説得や根回しが奏功し、他の業者を徐々に押し返して基盤を確立。スタート時点の日量180リットルは翌年7倍に。さらに自らの乳牛増頭計画、県の酪農振興政策が追い風となって、集乳量はドンドン増えていった。
◆余乳問題と諏訪産業の伊那工場
いっぽう販売は日量三千本(180cc換算)で頭打ち、毎日700〜800リットルの原料乳が宙に浮く。裾花工場は瓶詰め牛乳しか製造できず、練乳・バターへの加工も無理だった。
そこで余剰乳は保証牛乳・東京工場や諏訪産業・伊那工場(⇒保証牛乳グループ)へ転送し始める。ようやく安定、は束の間。昭和29年末、諏訪産業の乳代手形が不渡り、同社は事業停止(※1)。農工利連は巨額の未収金を抱えた。
債権回収に奔走の結果、伊那工場の諸権利を確保。30年、工場は各者協議のすえ、三協乳業(※2)の拠点として復活。農工利連は生乳出荷を無事再開する。
※1 同様に前出の北部酪農協も事態に窮し、和光堂・三協乳業と提携。和光牛乳の商いに転じる。
※2 三和乳業(和光堂の子会社)・武田食糧(武田牛乳)・諏訪産業の3社合資で設立。
◆集約酪農地域指定に沸く
同じく30年、一帯は戸隠山麓集約酪農地域指定を受け、農家の畜産熱は一段と高じた。集乳日量は9千リットル、市乳販売も営業努力が実り日産一万本。工場の処理能力を超える。
当初、集約指定における中心工場(基幹工場)の本命は、明治乳業・長野工場だった。しかし長水農工利連は今が機と見て、総合的な乳製品工場の新設を立案。前評判をくつがえし、集約先ポジション獲得の大金星。
この間、松本市に製造拠点を構える協同乳業(名糖牛乳)は、明治が長水地区の生乳集荷の主導権を握った場合の悪影響を懸念し、農工利連を支援したという。
◆新工場稼動・ノーコー牛乳の廃止
昭和34年、安茂里の水田地帯に堂々の新工場(長野工場)を落成。建設に際しては和光堂と提携し、経営規模は拡大も、ノーコー牛乳は売上全体の一割に満たなかった。
実質製造は和光堂の粉乳(レーベンスミルク)・バターの請け負いが大半を占め、同社の経営・技術要員が多数参与。こちらが運営主体の態。
それでも原料乳は消化し切れず、日々8割以上を名糖とサンキョー伊那工場に中継出荷。地元農系資本のプレゼンスは失われ、手駒の市乳部門は伸び悩み。昭和40年、工場・営業権の一切を三協乳業へ売却、ノーコー牛乳は消滅した。
◆古里工場の開設・今に続く長野興農
遡って昭和27年、長水農工利連さんは裾花工場とは別に、下駒沢へ古里工場を設けている。酪農とともに増えた果樹栽培のリンゴや桃、イチゴ、トマトを加工販売するための拠点だ。
しかし往時の搾油工場に同じく、周辺の収穫期に操業が集中、稼動率は不安定に推移。やがてジュース類を雪印乳業から、ジャム類を明治屋から…大手の受託仕事が中心に。原材料は域外調達が過半、独自製販は約一割まで落ちた。
低迷打開を期して昭和39年、古里工場内に長野興農(株)を設立。長水農工利連を母体として農産加工を継承。のち業容は順調に拡大、県産品主体の各種食料製造を続ける。
― 参考情報 ―
社団法人長野県缶詰協会のあゆみ (同公式サイト)
長野興農、設立30周年迎える 高品質化さらに挑戦 (日本食糧新聞)