戦前結成の商業組合をルーツに、およそ80年の歴史を刻む現役ミルクプラント。数次の改組・改称を経て、現在は長野牛乳(株)となっている。過去は雪印乳業傘下・同製品の請け負い歴が長く、独自銘柄の展開は抑制的だった。
掲載は組合の初代印刷瓶装と思しき一本。牛乳瓶を星印で囲む自社ロゴは、旧長野市章の翻案。雪印時代は影を潜めたが、平成の独立路線で復活を果たす。
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画像上:長野牛乳・バターの広告(昭和26年)…みんな元気で飲んでいる!当時の販促マッチを模した?可愛らしい箱型広告。 |
近年は主に長野県農協直販や八ヶ岳乳業と提携。オリジナル商品「長野牛乳」は紙パックで存続。ビン詰めは雪印傘下の晩年、大瓶のみ製造。それも廃止されて久しい。
◆共同経営の開始・長水牛乳から長野牛乳へ
振り出しは昭和12年。不況下の過当競争に悩む当地の牛乳屋さん15名が、約7年に及ぶ交渉合議のすえ団結。新たに商業組合と共同処理場を立ち上げ、各戸別の搾乳販売を「長水牛乳」に統一、商い始めたのが事の起こり。
結成前後には牛乳営業取締規則の改正が生じ、工場近代化のため莫大な設備投資が求められてもいた。経営に余裕はなく、明治や森永への原料乳出荷に転向する話も出たが、家業の独立維持を念頭に合資連帯を決したという。
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画像上:長水牛乳商業組合・長野ミルクプラントの外観(昭和12年頃?)…開業当初に配布されたらしい組合案内のチラシより。大八車がずらりと並ぶ。星のマークは立ち上げからの採用と分かる。 |
戦中〜戦後の統制下は苦渋の日々、牛乳を物々交換で捌く混迷を何とか凌いで昭和24年、中小企業法に基づく長野牛乳商業協同組合を設立。ここに「長野牛乳」が生まれた。
◆雪印乳業と販売提携・実質傘下工場に
人心落ち着き景気も徐々に回復、市乳需要は爆発的に伸びていく。組合員も増えて業容は順調に拡大、販売量は右肩上がり。昭和29年時点の実績はメンバー17人で乳牛170頭を飼育、日産は一合びん詰め1万2千本ほどだった。
ところが昭和40年、雪印乳業が県下に本格進出。地元資本単体では市場競争に耐えられないと判断、長野牛乳は雪印と販売提携・協定を結ぶ。
以降は雪印ブランドの受託製造がメイン、独自アイテムは大幅縮小。生乳調達から製品化までを長野牛乳で請け負い、雪印が販売する役割分担が確立。長野牛乳協業組合への改組をまたぎ、この二人三脚は30余年の永きに渡って続いた。
◆倒産危機から独立企業への飛躍
言わば雪印乳業・長野工場。良くも悪くも安定経営実現のところ、平成12年、大阪で雪印の集団食中毒事件が発生、事態は急転。当時、長野牛乳が出荷した雪印マークの牛乳・乳製品は、何ら問題なかったが全部回収、返品で戻ってきてしまう。
差し当たり雪印が売上保証、損失補填。しかし平成14年、雪印食品の牛肉偽装が発覚する頃には同社も余裕を失い、支援は途切れる。あとは長野牛乳の自力救済だが、協力工場の歴史あまりに長く、ともすれば保守的な運営で、破綻は時間の問題と囁かれた。
危機突破のため、平成初年から内部調整を試みていた株式会社化を16年に断行、長野牛乳(株)が発足。組織の柔軟性を高め、雪印以外の販路を確立。新商材の開発・事業化も成って、次の時代を着実に歩み始めている。
― 参考情報 ―
地域商業文化を創造する会
1月例会議事録 (4C COMMITTEE)
長野牛乳商業組合の紙栓
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
長野牛乳協業組合の紙栓
(牛乳キャップとは)