愛知の酪農を牽引した一大生産地。戦前来の営みは昭和26年、共同ミルクプラント開設・刈谷牛乳の誕生に結実。以来20年、大いに商ったが、都市化による酪農基盤の弱体化、販売量の頭打ち、余剰乳処理の困難など諸問題に直面。
各者協議のすえ、県下に急成長を遂げていた知多牛乳(⇒みどり乳業)に吸収合併され、ブランドは消滅した。掲載は往年のオリジナルである。
◆ひょんなことから酪農が普及
東浦地区の酪農の起こりは昭和初年、当地で果樹園を営む日高農場の、有畜農業から始まった。役牛・乳牛を入れ、厩肥作りに取り組む日高氏は、近所にも飼育を勧め、徐々に同志が増えていく。当面はしかし、余技の域を出なかった。
昭和15年頃、新しい使役牛を求め、町の農家一行が三重まで買い出しに行く。あいにく出物に恵まれず、手ぶらの帰り道、仕方なく名古屋で乳牛を調達して戻ったところ…絞った乳が思いのほか良く売れる!結果、急速に乳牛が普及したという。
盛況を受けて昭和17年、日高氏の骨折りで東浦酪農組合の結成にも至るが、戦時は飼料・労働力不足で衰退。同26年頃、ようやく戦前の規模に戻った。当時は原料乳の出荷に専念。主要な卸し先は隣町の大府にあった森永乳業・愛知工場だった。
◆生産直売・刈谷牛乳の誕生
しかし乳価は不安定で実入りが悪い。自家処理・直販に乗り出そう、の気運が高まる。丁度その頃、乳製品の衛生法規が変わり、既存の牛乳工場は刷新を迫られていた。東浦の個人プラント2軒(藤牧場、原田牧場)は余力なく、酪農組合との協業を打診。
そこで組合は、地場団結の新工場建設を目指し、東浦町農協に融資を頼んだ。牛飼いは組合員の僅か5%。影響力に乏しいが、再三の申し出と、将来性を見込んだ理事の後押しで、農協の参与が決定。昭和26年、刈谷牛乳共同処理場の落成を見た。
営業開始3日間の売り上げは、一合瓶詰め100本。苦しいスタートながら、地元の知多郡・東浦町でなく、消費人口の多い刈谷市に工場を置き、市民に親しまれるよう「刈谷牛乳」と命名した戦略は正しかった。程なく順調に商売は伸びていく。
◆需給ギャップ・酪農基盤の弱体化
昭和30年代には販売量の増加で生乳不足を来たし、集乳エリアを順次拡大。明治乳業・安城工場へ出荷していた周辺19の酪農組合も、供給先を刈谷牛乳に切り替える。
製品の販路は学校給食・官公庁・事業所・飲食店向けの大口需要に加え、地域に宅配顧客を持つ米穀商との販売提携もあった。ところが夏に足りず、冬は余る、飲用牛乳の宿命・需給ギャップに喘ぎ、収支は浮き沈みを繰り返す。
バターやチーズ、ヨーグルトなど商材を増やすべきだが、その加工設備を導入する資力がない。余剰乳は旧来の取引先・森永に、無理くり買い取ってもらう綱渡り経営。また、一帯の都市化で農地・自給飼料が激減。生産コストは肥大し、酪農を辞める者が続出した。
◆知多牛乳と合併・みどり牛乳へ
昭和47年、県下では同じく農系プラントとして伸長著しかった、知多牛乳生産農協(知多牛乳⇒みどり牛乳)に合併・合流。刈谷牛乳共同処理場と東浦酪農組合は、知多牛乳が吸収する格好となり、刈谷の銘は廃止。約20年の歴史に幕を下ろした。
この合併を機に、東浦町農協は市乳事業より完全撤退。昭和49年には大府市農協(大府牛乳)、阿久比町農協と合併して東知多農協に転換。平成12年、さらに県下2組合との統合を果たし、今はあいち知多農協に変わっている。
なお、刈谷の工場は短期間、知多牛乳生産農協・刈谷分工場の扱いで運用が続いた。学校給食の納入契約の都合らしい。統一銘柄「みどり牛乳」が策定される昭和48年までの約1年に限り、学乳向けに「刈谷牛乳」が残った可能性はありそうだ。
― 参考情報 ―
刈谷にも牛乳メーカーがあったの件 (まるかど日記)