<全酪連とミルクネットとメグミルク>
◆全酪連設立前夜のエピソード
創立検討の段階では、森永乳業系列の酪農協代表が中核を担った。全酪連を通じ、森永の集乳ルートを全国的に確立するチャンスだ。しかし特定メーカーの傘下にない組合も多い。「資本(乳業)の横暴には、全国組織で団結・対抗すべき」の考えが大勢を占め、目論見は潰えた。とはいえ森永と全酪の関係は、おおむね良好であると会史は記す。
 |
|
画像上:東京工場の市乳パック製品(昭和50年頃)…全酪牛乳(乳脂肪分3.0%以上)、全酪ホモジナイズド牛乳(乳脂肪分3.2%以上)、全酪ヴィーナス(加工乳)の3種類。 |
◆全酪連に身を委ねた酪農組合
全酪連の市乳事業参入は昭和27年、宮城県・本吉郡酪農協のミルクプラント受託経営に始まる(⇒津谷工場)。翌年に岩手県・二戸郡酪農協(⇒北福岡工場)、宮城県・遠田郡酪農協(⇒小牛田工場)の各生産拠点を得て、全酪牛乳は東北地方へ浸透。主に昭和30〜40年代、さらに規模を拡張していった。主な提携/買収先は以下の通り。
|
|
西宇和酪農農協(愛媛県八幡浜市)⇒西宇和処理場
魚沼酪農協連合会(新潟県北魚沼郡)⇒堀之内工場
共栄酪農農協(茨城県北相馬郡守谷町)⇒集乳所に転換
越路酪農協(新潟県長岡市)⇒長岡工場
結城酪農協(茨城県結城市)⇒結城工場
岩岡酪農組合(兵庫県神戸市)⇒神戸工場
胆沢牛乳商業協同組合(岩手県水沢市)⇒水沢工場
新川酪農協(富山県魚津市)⇒魚津分工場 |
そのほか、加盟団体に対する技術供与・運営支援の形で、全酪連は多くの市乳処理工場立ち上げに関わる。資本参加を受け、牛さんマークを掲げる農協系プラントもあった。(⇒広島・ニコニコ牛乳/鹿児島・川酪ニコニコ牛乳)
◆ジャパンミルクネットから日本ミルクコミュニティへ
水増し露見の平成8年、全酪連は直営2工場を独立会社(ジャパンミルク東北/北日本)とし、さらに都市圏の4工場(東京/東京デザート/狭山チーズ/神戸)を束ねるジャパンミルクネット(株)を設立、製造部門の再構築に乗り出す。
平成11年、北福岡工場は地元農協との合資で奥中山高原農協乳業に転換。ジャパンミルク北日本(株)(旧・長岡工場/全酪北日本乳業)は収支改善せず、同12年に解散。次いで13年、乳業事業の残余大半をジャパンミルクネット傘下に集約し、イメージ刷新を狙った新商品「酪農家シリーズ」を策定、ゼンラク再建の目処が立つ。
一連の改編・合理化で、見事に黒字を実現と伝えられたが…雪印乳業の集団食中毒事件を契機に業界全体の再編が巻き起こり、平成15年、日本ミルクコミュニティ(株)(メグミルク)に事業統合の運びへ。
 |
|
画像上:東京工場の乳製品(昭和50年頃)…びん詰めは乳飲料がメイン。コーヒー、フルーツ、いちご、リンゴなど。ゼンラクブルガ―(乳酸菌飲料)にヨーグルト、プラカップのフルーツサワーも揃っている。 |
過去、全酪連の公式サイト・全酪連のあゆみは、それについて「新しい形で乳業事業の展開を始める」と絶妙に表現。その2年前から既に“新しい形で乳業事業の展開”を自らやっていたわけで、表には出せぬ複雑な想いもあった?だろう。
なお、ジャパンミルク東北(株)(旧・宮城工場)は平成14年の段階で、雪印の資本参加を容れみちのくミルクに衣替え。神戸工場はメグミルク移管せず、同15年に閉鎖。同じく移管しなかった狭山チーズ工場は同18年、全酪連の直営に復帰した。ジャパンミルクネット(株)は全ての役割を終え、平成20年に解散となっている。
◆未来予測はいつも難しい
この項で度々取り上げた会史[全酪連二十五年史](昭和50年・自刊)の最終章は、「昭和75年の酪農予測・25年後の本会を展望する」長期計画案が締め括り。大量のページを割いているわけでなく、レジュメに近いものだが…。
そこにはもちろん、水増し事件も雪印の転落も予期されていない。ジャパンミルクネットも日本ミルクコミュニティも出てこない。そんな前提を立てられるはずもなく、当たり前の話だ。常套句「あってはならないこと」が、いかに多く乳業界で起きてしまったか…昭和75年(=平成12年)を見越した記事には深い哀愁が漂う。
このページの一番上へ戻る