戦後の山羊乳販売から始まった、本島南部のローカル銘柄。昭和40年代までは経営者さんのお名前そのまま「真志喜(ましき)牛乳」の商い。以降採用の「ベスト牛乳」はいかにも沖縄らしい聞こえ。平成10年代?に廃業、ブランドは消滅している。
幾何学的なロゴマークは昔の名残り。片仮名の「マ」を環状に4つ、その中に「キ」の字を据えて「マシキ」と読ませる言葉遊びだ。(⇒関連:南新乳業・ヘルス乳業)
◆ララ物資の乳用山羊さん
かつてそれなりの規模を誇った沖縄の乳牛飼養も、米軍との戦闘で壊滅。戦後、全てが灰燼に帰した島内で、住民は極度の困窮を強いられた。
日本の惨状を見聞した在米日系人やキリスト教関係者は、民間ボランティア組織・アジア救済連盟(LARA)を結成、巨額の支援を実施。衣類・食糧に加え、多数の乳用山羊を日本へ贈る。(⇒敗戦、貧困、ララ物資:上 / 中 / 下 /JA Circle)
山羊は自治体経由で全国の農家に分配され、貴重な栄養源となり、畜産の基礎作りに役立った。昭和20〜30年代に勃興の山羊乳処理業者(⇒特集-山羊乳瓶)は、ララ物資の恩恵に浴した所が少なくない。滋賀・今津町農協さんの受け入れも一例だ。
◆コーラの空き瓶に山羊乳を詰めて
沖縄に寄贈山羊が届くと、当時は乳牛死滅の折柄、山羊乳の代替販売は自然な流れ。県下では山羊乳で身を起こし、徐々に牛飼い・酪農へ切り替えた所が数軒あったという。本稿のベスト牛乳・眞志喜朝英氏はその先駆者だった。
氏は極貧生活の脱却を期し、昭和23年に山羊乳の製造に着手。ララの乳用山羊はもちろん、農家の山羊も買い集め、搾乳・煮沸殺菌し、コカコーラの空き瓶に詰めて売り歩く。
資材欠乏の昭和20年代、アメリカから持ち込まれたソフトドリンクの空き瓶を、別目的に流用する業者は珍しくなかった。琉球政府は衛生強化のため牛乳処理場の設備基準を規定、昭和31〜33年に大幅改善を断行。本土より正規の牛乳瓶を一括購入して頒布、異種ビンの利用を禁じた。 |
昭和26年、鹿児島のホルスタイン2頭を輸入。取り扱いを牛乳に改め、「真志喜牛乳」が誕生。消費拡大に応じ牛は15頭まで増やしたが、同50年に至って自家飼育を中止。原料乳は仕入れ調達とし、処理販売に専念の業態に変わった。
◆掲載瓶・各種標示について
(1)番が本土復帰直後、(2)番が昭和50〜60年代、さらに平成まで続いたビン…と思う。法人化・銘柄変更は昭和48年の頃、前者がベスト牛乳の初代瓶装だろう。
南風原(はえばる)村の町制施行は昭和55年。記載の住所で(2)番は比較的新しい出来と分かる。あるいはこれが最終世代かも知れない。(1)番も時代的には要冷蔵注記あってしかるべきところ、内地と法令が違い、標示義務もまた異なった。
大川牛乳や仲本牛乳さんの瓶と基本デザインが酷似する。過去、県下には中小ミルクプラントの協業団体があり(⇒関連:知名牛乳)、瓶に限らず牛乳キャップも似た感じの作りが多い。何らかの決め事、統一フォーマットが存在した可能性はありそうだ。
― 関連情報 ―
ベスト乳業の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)