地元資本で随一の規模を誇った、往年の協業メーカー。約50年間の商いを経て平成14年、破産・廃業に至り、ブランドは消滅。度会(わたらい)郡・大内山乳業との販売提携が、廃業前年の13年に始まっており、一部の商材や得意先は承継されている。
市域には学校給食でお馴染みの銘。キャップコレクター諸氏の捕捉率も高い。いっぽう現役時代を伝える情報は、意外なほど少ない。
◆四日市牛乳の誕生
昭和26年、四日市市とその近郊で搾乳販売を行う牛乳屋さん15名が結集、四日市乳業事業協同組合を設立。ここに統一ブランド「四日市牛乳」が生まれた。組合は新工場に県下初導入の先進機器を据え付け、鋭意拡売に取り組み始める。
それまでは各者個別に小規模ミルクプラントを操業。ところが食品衛生法/乳等省令の公布にともない、近代的な処理工場の立ち上げが必須の情勢に。設備更改の負担に窮した業者さんらが、企業合同・共同処理の道を選択…という流れのようだ。
四日市における搾乳業の萌芽は早く、明治14年には北町に、その後、西町、稲葉町、高砂町へ牛乳屋さんが続々勃興。もとより三重は名古屋・京阪神の大商圏に接する好立地。トレンドの伝播、販路開拓とも都合良く、乳業普及・発展に繋がっていた。
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画像上:天皇皇后両陛下の行幸に際し、御料牛乳の納品に向かうトラックと従業員さんら(昭和37年)…当時の工場、右上に旧ロゴが見える。配送車には「御料牛乳」の横断幕。昭和26年の陛下行幸に続き2回目の献上だった。[三重県酪農史]より。 |
◆地場乳業・牧場の追加合流
業者さん連合ゆえ商売はお手の物だったか、四日市牛乳は順調に伸びた。昭和39年にはUHT殺菌に切り替え、さらに第二工場を設け、規模は拡大の一途を辿る。
併せて管内の中小乳業・牧場に組合への新規加盟を促し、これに応じた21名が追加合流。メンバーの仔細は不明だが、四日市市内に限ってみると、昭和36年時点で11軒を数えたミルクプラントが、同40年には5軒まで減っている。
この時期に牛乳工場名簿から消えたのは、後藤牧場(東富田)、朝明牛乳(東富田)、加藤牧場(桜町)、井上牧場(和無田)、小山田酪農(内山町)、水沢酪農組合(水沢町)さんら。事業協組を中核に、集約・再編が進行したのだろう。
◆協業組合の乳製品メーカー
母体の事業協組や協業組合を、生産者名義として展開(全部協業)した所は、全国的にもちょっと珍しい。かつて県下には一志乳業企業組合(⇒井村屋牛乳)、鈴鹿牛乳事業協同組合(のち解散・有限会社に改組)があった。
富山では今も新湊乳業協業組合、となみ乳業協業組合(⇒砺波牛乳)が運営される。それ以外の地域に、こうした業態はあまり見られない。
学校給食用委託乳に参入の各社が、都道府県/自治体単位で組合を作るケースは多いものの、大半は出荷調整目的の営業体(一部協業)。生産者名義は個別の名乗りが一般的だ。(⇒組合の種類と主な事業/東京都中小企業団体中央会)。
◆掲載瓶・ロゴマークなどについて
掲載は昭和30年代の一合瓶と、200cc増量後・ロゴ違いの2本。設立後20年間は「四」の字を野球のボール風にあしらったマーク、以降は四つ葉のクローバーを象った図形。旧商標は滋賀・荒川牛乳さん、京都・小畑牛乳さんのボールロゴと良く似る。
昭和42年に紙容器(テトラパック)充填機を導入、ワンウェイ販売へ早期に着手。名糖・豊橋工場の初期事例を除き、中部地方では一番乗りか。それでも瓶装は晩年まで残った。
かつて戦後の四日市には、約15軒の牛乳工場が存在。平成に残るは本項組合を筆頭に、真弓牧場、伊藤牧場、天春牛乳さんの4社だけ(四日市酪農協の処理場は三重郡菰野町)。その後も転廃業相次ぎ、四日市牛乳の終焉をもって皆無となった。
― 関連情報 ―
四日市乳業の紙栓(1) / 同・(2) (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
三重の牛乳のふた (職人と達人) / 四日市牛乳の宅配受箱 (木製牛乳箱)