戦前に明治系のミルクプラントとして発足、幾度かの経営交代を経て昭和27年、県西部酪連・広島牛乳となった地場農系メーカー。都合20年間に渡って存立も、37年に関西酪農協同(株)(毎日牛乳)が工場と営業権を買収し、独自銘柄は消滅した。
◆前史・広島牛乳と明治牛乳
遡ること昭和11年、地元資本が宇品町に広島牛乳(株)を設立。これは明治誘致の受け皿だったのか、翌年に明治製菓(明治乳業)が広島県に進出、同社と提携を結んで系列下に置くと、16年には商号を明治牛乳(株)に改め、本格的な営業が始まった。
間もなく戦時の企業統制で、明治牛乳(株)は広島牛乳商業組合と協業。市域・周辺郡部の生乳を一手に担う集約工場の指定を受け、社名は再び広島牛乳(株)へ戻る。
昭和20年8月、原爆投下の混乱・被害により事業を休止。戦後再興に臨むが、非常時の急造体ゆえ関係者間の利害対立著しく、経営方針が全く定まらない。参加法人のひとつ、原料乳供給の要・砂谷酪農組合(サゴタニ牛乳)は嫌気して抜けてしまった。
◆河源商店から県西部酪連へ
搾乳業者(牛乳屋)、牧場主、小規模酪農家の相克は如何ともしがたく、明治乳業も匙を投げ、持ち株を売り払って経営から撤退。昭和25年、広島牛乳(株)は地元で皮革/石鹸製造・精肉業を営む河原源三郎氏・河源商店の所有に変わる。
河原氏はもともと広島牛乳の大株主、ご親族の乳業も戦前合流しており、縁の深い人だった。しかしミルクプラント運用は畑違い、特に原乳調達には苦労が絶えなかった。
昭和27年に至り、河源商店は自力操業を断念。県下およそ30の関連団体からなる広島県西部酪農業協同組合連合会が、広島牛乳(株)の資産・業務一切を継承。旧称そのまま?掲載の「廣島/ヒロシマ牛乳」を売り出していく。
◆砂谷酪農協の合流・経営の行き詰まり
多くの酪農組合が後ろ楯につき、原料面の不安は一先ず解消。昭和32年、かつて離脱した砂谷酪農協の久保政夫氏を招聘、県西部酪連は氏を組合長に据え、祇園町西原に新工場を落成すると、のち砂谷工場の処理機械も移して設備を強化した。
併せて各地に営業所を設け鋭意拡売に努力、広島牛乳は徐々に生産量を増す。いっぽう明治乳業は県内に別途拠点を築くなど、同業大手の攻勢激しく見通しは悪化。さらに組合の会計を精査したところ、久保氏就任以前の莫大な隠れ借金が露見、万事休す。
◆毎日牛乳と事業統合・独自銘柄は消滅
近い将来に破綻は必至の情勢に直面し、急遽打開策が模索された。昭和37年、県西部酪連は臨時総会で関西酪農協同(株)との提携・事業統合案を可決。
組合は原料乳供給に専念、ミルクプラントは関西酪農へ売却、同・広島工場に転換。商い銘柄を「広島毎日牛乳」と変更…の体制に落着する。結果的にこの判断は正しかったのだろう。拠点は今なお日本酪農協同(株)広島工場として現役操業中だ。
ただ、ともすれば大企業的な方針を採る毎日側と、農民連帯の意識を人一倍強く持った久保氏はどうしても相容れず、昭和38年に砂谷酪農系は脱退。その後も県西部酪連は生乳出荷団体の責を果たし長らく存続も、平成7年に広島県酪に統合されている。
◆掲載瓶・ブランド名について
たくさんの文字が躍る賑やかな(1)番瓶が目を引く。ホモゲ(ナイズド)=均質化処理を前後で強調、時代のノリを伝える構えだ。ビタミン添加の加工乳らしいが、ラインナップ上は無調整の白牛乳に換わる扱いだったと思う。
当時は全国的な原料不足で生乳100%の展開が難しく、あれこれ混和した加工乳をメインにしたい事情に加え、ビタミンD強化を謳った大ヒット商品、森永ホモ牛乳も意識したはずだ。
「広島酪連」の略称で示され得る処理場は、ほかに県東部酪連(中国酪農協同⇒山陽乳業)と、県北部酪連がある。前者は「ニコニコ牛乳」(平成4年頃に廃止)を、昭和48年設立の後者は「げんき牛乳」(広島協同乳業の製造で健在)をそれぞれ商った。
◆「国富はその国の人間なのだ」フルーツミルク
参考掲載の啓蒙ビン・格言入りフルーツミルクは、文字通りフルーツ牛乳の専用瓶装。牛乳瓶には異例の三色印字で、なおかつ白地に赤と青のインクを重ね刷りした仕上げ。製瓶コストは割高と思われ、採用例は非常に少ない。
「国富はその国の人間なのだ」唐突な警句の仕掛け人は、いっとき傘下にあった砂谷酪農協の久保政夫氏。社会学か経済学の古典籍より抄訳・引用の言葉か、それをフルーツ牛乳の瓶に書く真意は果たして?仔細はサゴタニ牛乳の項に譲る。
― 関連情報―
日本酪農協同・広島工場の紙栓(1) (2) (3) (4) (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
「毎日牛乳」の牛乳瓶(2006年前期) (ほどほどCollection)