砂谷牛乳砂谷牛乳 サゴタニミルク (五合瓶)
砂谷牛乳

砂谷酪農業協同組合
広島県広島市大手町8
日本硝子S32年製・正180cc側面陽刻
昭和30年代初期〜中期
サゴタニミルク (五合瓶)

砂谷酪農(有)⇒砂谷(株)
広島県佐伯郡湯来町大字伏谷1321
山村硝子製・容量打刻なし
昭和40年代初期

県西部を地盤にサゴタニ銘を展開する現役メーカー。生乳供給は広島市農協・砂谷酪農部会が担う。当地の牛飼い・市乳処理事業は、その道を戦前の創成期から指導・牽引した久保家に拠るところ大きく、往時の活動は様々な資料に言及される。

かつて小説家を志し広島を離れ、都下に哲学・芸術・外語を学び、病を得て八丈島へ渡るや農業・畜産に邁進。上京20年の歳月を経て再び故郷の地を踏むと、砂谷村をミルクの里に変えていった、久保政夫氏の実践の歴史だ。

本項は上段に戦後成立の記録、中段には啓蒙・格言標示の仔細と背景、最下段に前史である久保氏の青年時代をまとめる。「酪農と人間―久保政夫さんの生い立ちと砂谷酪農」(昭和32年・神田三亀男)に加え、ほか複数の酪農史誌を参照した。


◆農協発足と第一期「砂谷牛乳」の展開

砂谷牛乳の萌芽は昭和19年。帰郷した当地で酪農を始めた久保氏を中核に、有志が相集い砂谷酪農組合を結成。明治製菓の五日市(広島)工場や、宮島対岸の大野陸軍病院、統制期には宇品町の広島牛乳(株)へ生乳出荷を行った。

戦後、広島牛乳は経営紛争を来たして頓挫。もとより独立の機を窺っていた久保氏は昭和25年、組織を砂谷酪農業協同組合に改め大手町にミルクプラントを開設、生産直売「砂谷牛乳」が誕生する。上掲の赤刷り一合瓶は、丁度この時代だ。

砂谷は十円牛乳の売り出しと、11枚綴り(1本おまけ)の牛乳切符で大好評。空きビン数千本の盗難など、農家の市場進出を逆恨みした既存業者の妨害にも遭うが、品質本位と生産者価格で堂々と渡り合い、着実に支持を広げた。

◆広島県西部酪連への合流

いっぽう湯来一帯の乳牛飼養も順調に拡大、「砂谷北海道」を形成。久保氏は12ヵ年計画(牧草地造成・乳牛1万頭)の独自構想も温めていた。そんなところへ、事業融資元の農林中金や県行政より、熱の入った斡旋・要望が舞い込む。

昭和32年、砂谷酪農協は前記の広島牛乳(株)を吸収した県西部酪連(ヒロシマ牛乳)へ加入・統合。久保氏は連合会長に推される。指導者と仰がれ思わぬ規模拡大も、これは結果的に砂谷牛乳の歩みを止める毒饅頭だった。

◆毎日牛乳の軍門に下る

大手各社の進出に難しい舵取りを強いられるなか、連合会に隠し負債が発覚。運転資金逼迫のすえ昭和37年、市乳事業は関西酪農協同(毎日牛乳)に売却せざるを得なかった。

「広域乳業の餌食にはならん、大資本の攻勢が勝つか我々の教育の力が勝つか」の気迫で取り組む久保氏は愕然。毎日牛乳の企業的な運営方針とも相容れず、38年、久保氏・砂谷酪農協は負債整理の責任を取る格好で連合会を脱退した。

◆会社設立・第二期「砂谷牛乳」の展開

一連の経過で大手町の直営ミルクプラントを失い、砂谷酪農協も解散。組合員は湯来酪農組合や砂谷農協(現・広島市農協)へ所属を変えた。久保氏は心機一転、砂谷酪農(有)を立ち上げ、農場に処理施設を据えて「砂谷牛乳」を復活させる。

流通合理化のため、五合瓶(900ml)を積極展開。「そんな大容量で配達しても客が飲み切れず売れない、砂谷酪農が潰れるのは時間の問題」と囁かれたが、前払いチケット採用で手頃な値段、飲用消費拡大のニーズを捉え大成功を収めた。

上掲の「サゴタニミルク」水色瓶がそれ。昭和40年代中期、広島営業所は五合瓶のみの取り扱いで回った。さらに当時、一躍脚光を浴びた不老長寿の野草・コンフリーの生ジュースが相当の人気を博し、売り上げは牛乳と二本柱を成したという。


◆精神の眠っているヨーグルト・意志の弱いミルク

『精神の眠っている人は美貌も一しょに眠っている』『意志の弱いことは罪悪である』…敢然と刷り込まれた警句にびっくり、のち困惑の掲載瓶2本。小説家に憧れ文芸・思想にどっぶり漬かった久保氏青年時代の、知識・教養への希求が滲む。

毎日売り出される市乳の壜にも「精神の眠っている人は美貌も一しょに眠っている」と赤字で印刷してあるが、片言隻語の中に、久保さんの哲人的、実践的な思考が汲みとれよう。生産と教育、消費と教育に善意をもって啓蒙がはかられているのだ。<中略>(久保氏曰く)食物は人間の肉体を作る。書物は人間の精神を作る。だから食物は栄養のあるよいものを食べ、寸暇でもあれば良書を読む心がけが大切である。―[酪農と人間―久保政夫さんの生い立ちと砂谷酪農]より抜粋

昭和25年、砂谷牛乳の誕生と同時に始まった啓発・啓蒙スローガン掲示の狙いは、「自分たちの仕事(に対する姿勢や本質)を知ってもらう」「体の健康は牛乳から、心の健康は本から」「本を読むきっかけ作り」「歴史に学び貧困を脱却」…そんな所にあった。

いっとき合併したヒロシマ牛乳のフルーツミルクにも同様の啓蒙瓶が存在、久保氏の発意を汲んだものだろう。自社広告の枠に囚われない、情熱家の想いが溢れる。

◆トラックやオート三輪にも格言を配置

集乳・配達用の自動車のボディー(荷台の幌)にも、哲学者や宗教家の格言、あるいは久保氏独創の言葉をペイント。書物の引用・抜粋と、久保氏発案を含む一行警句を、両側面に配置。砂谷所有の啓蒙トラックは広島市中を走り回る。

砂谷酪農の集乳/配達用トラック(昭和30年代初期)砂谷酪農の集乳/配達用トラック(昭和30年代初期)
画像上:砂谷酪農の集乳/配達用トラック(昭和30年代初期)…左側は『愛は貧にかがやく』(三浦関造の著書標題)、右側は3行の長文で『肉体労働を難問題の解決に結びつける/つまり手と頭を結びつけることができたときには/私はとくべつ大きな喜びを感じました ―パヴロフ―』と書いてある。

四輪トラック4号車
『泉から水を汲むことのできる者は 器に汲み置きの水は飲まない』(ダ・ヴィンチ)
『何事も安易には手に入れることができない
  という事実の中で熟練することこそ大事なのだ』(亀井勝一郎/文芸評論家)
オート三輪2号車
『人生の幸福は困難が少ないあるいは全くないということにあるのではなく
  それらをすべて立派に克服することにある
  力は弱点の克服における練習から生ずるものである』(カール・ヒルティ/スイスの法学者)
『水は方円の器にしたがい 人は善悪の友による』(孔子)
オート三輪1号車
『すぐ役立ちそうもないものにとりくんで読むのが読書だとおもう』(久保政夫氏)
『日本の生活全体の中に もっと持続と蓄積とがあらゆる面で強調されたい』(同上)
農村部移動用の社用車
『農民よ女房を使うな 頭を使え』(久保政夫氏)

格言はどれも難しい感じ、「一体何だ」と人目を惹いたと思う。久保氏の直言らしい文章は取っ付き易いが、社用車の言葉はなかなか辛辣だ。農場の集会に用いる大広間には八千冊の蔵書を収め組合員に解放、まるで農村図書館のようだったという。

◆時代を超えて発信され続けるメッセージ

サゴタニ訓示は今なお大瓶製品に健在、代々社長さんが格言を選定するそうだ。近年流通を確認できたのは以下の通りで、かなりのバリエーションがある。

種は心、花は態(わざ)なるべし 世阿弥 (⇒世阿弥「風姿家伝」)
たることを知れば安楽世界にて ほとけの加護に法の道すじ (⇒脇坂義堂「御代の恩沢」の仏教句?)
※上記2種の文章・出典はkazagasira様にご教授頂きました
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ ビスマルク (⇒ヒネモスノタリトバーテンダー
生き残れるのは、強い者でも賢者でもなく
唯一変化できる者である ダーウィン (⇒低温殺菌牛乳あれこれ
一念、天に通ず 吉田○○ ※後半読み取れず (⇒mixiコミュニティ/砂谷牛乳
人は錬磨により仁となる 永平道元 (⇒となりの里山BLOG
個性は基本という土台があって 初めて光るものである (⇒となりの里山BLOG

過去、公式サイト内サゴタニの歴史(IAキャッシュ)では、なぜ瓶の下部に格言を?の疑問に答え、旧世代の五合瓶の写真を掲載、むかし使われた別の格言が見える。『真の芸術には予備校はない ただ実力の修得があるのみである』、これはゲーテの言葉だ。


◆作家を目指して上京・文学青年時代

創業者の久保政夫氏は、佐伯郡砂谷村(現・湯来町)の生まれ。村一番の資産家、屈指の大地主という恵まれた家柄で学業成績も優秀、将来は医師となるべく期待された。

しかし若き日の政夫氏は文学に傾倒。父親の大反対をものともせず県下トップの(旧制)中学校を退学し、大正12年、作家の夢を抱いて上京に踏み切る。そうして都下の高名な外国語学校、音楽学校に籍を置き、思索・創造の世界に没頭した。

学ぶにつれ、机上・身辺の私小説に終始する日本文学へ不満を感じ、「直接社会と繋がる、生産の場から生まれた作品」を志向。掌編をいくつか仕上げたものの、上京以来の生活変化が悪く出たか、幼少より虚弱の身に腎臓病を患っていた。

◆療養自活・牛乳を求めて八丈島に渡る

病を得て振り返れば、親の仕送りに頼る生活、体を壊して執筆など覚束ない。政夫氏は健康回復と自立を模索。友人曰く「療養には栄養豊富な牛乳が良い、八丈島なら安く飲める」。昭和5年当時、東京では一升1円。これが八丈に行くと、たった6銭という。

島には何の伝手もない。しかし政夫氏は島に渡って農業・畜産による自給自活を決心、連絡船に乗り込んだ。その船内で島の神港部落にある素封家の娘さんと知り合い、八丈に着くや望外の好意で居候を許され、新しい生活が始まる。

温暖な気候と食生活改善で体調を回復すると、土地を借りて山林開墾に着手。本で勉強しながら野菜を作り、島内で販売。空き家を買って自前の住居を確保し、牛と鶏も入れた。

◆努力と独創で農業・酪農事業を確立

暴風吹きすさび「鳥も通わぬ」と謳われた八丈の農事は、一筋縄ではいかない。政夫氏は開墾時の厄介者、地表を覆う火山岩を用い、高さ3mの防風垣を構築。のち「城塞栽培」「万里の長城」と賞賛される方法で、栽培品種・収量増加を実現。

島での成育は不可能だったスイカやトマト、キュウリが大評判。船便のしおれた青果物を駆逐、新鮮な野菜は飛ぶように売れた。八丈西瓜は本土へも移出、余所の倍の値段を付ける。

渡島3年のうちに事業は確立。牛舎建設・乳牛増頭して搾乳販売、八丈練乳(森永乳業・八丈工場)にも生乳出荷。当初「新参者の百姓が…」と冷笑した島民も、創意工夫で結果を出す若者の評価を改め、久保先生として指導を仰いだ。

◆砂谷に帰村・酪農郷実現に取り組む

島で生涯の伴侶とも出会い、かつて労働文学を目指した青年は、労働そのものに人生を見い出す。そんな折、郷里から妹の訃報が届いた。過日、結核罹患・重篤の報を受け「島へ療養に来い」と返信も、父や兄の反対で実現しなかったのだった。

葬儀のため20年ぶりに帰った砂谷村は、進歩なく衰え、貧しさが覆い、実家は土地を切り売り、没落の兆しが見えた。「島に来いと言う前に、この砂谷で八丈以上の理想を実現すべきだったか」早逝の妹を哀れむ気持ちは、新たな決断を迫る。

昭和16年、久保夫妻は八丈島の成功を投げうち、ホルスタイン23頭を引き連れ、砂谷村へ。開拓・酪農導入の苦闘3年、ここでも周囲の冷笑はやがて尊敬に転化。政夫氏の教導で乳牛飼育の輪が広がり、久保農場は村の中核的存在となっていく。

― 関連情報 ―
乳流るる里をめざして (広島県畜産協会) / 砂谷牛乳と健康生活のブログ (公式?)
第35回国会 農林水産委員会 第5号 (国会会議録検索システム)
砂谷酪農の紙栓(1) / 同・(2) (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
砂谷(株)の紙パック製品 (愛しの牛乳パック) / 同・宅配受箱 (むにゅ’s のぉと)
低温殺菌牛乳あれこれ52 牧場スイーツ FARM (やさしいバイオテクノロジー)


設立> 昭和19年、砂谷酪農組合として ※資料により16年、17年とも
昭25> 砂谷酪農業協同組合に改組・改称、広島ミルクプラント操業開始
昭31> 砂谷酪農・久保政夫/広島県広島市大手町8
昭32> 広島県西部酪農業協同組合連合会に加入、市乳事業を統合
昭38> 連合会を脱退、砂谷酪農(有)を新設、久保農場内に処理場を置く
昭39> 掲載なし

昭40〜44> 砂谷牛乳(株)/広島県佐伯郡湯来町大字伏谷1321 ※商号誤り?
昭46〜平04> 砂谷酪農(有)/同上
平05> 砂谷(株)に改組・改称
平13> 砂谷(株)/広島県佐伯郡湯来町白砂1202
平17> 湯来町は広島市佐伯区に編入される
電話帳掲載> 砂谷(株)/広島県広島市佐伯区湯来町大字伏谷1321
公式サイト> http://www.sagotani.net/ (砂谷株式会社)
                 http://kuboagrifarm.co.jp/ (久保アグリファーム)
                 http://www.ja-hiroshimashi.or.jp/ (広島市農協)

処理業者名と所在地は、全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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