昭和45年、規模拡大と合理化を期し、会津若松および周辺郡市の諸メーカーが設立した事業組合。新工場を立ち上げ、加盟各社の個別処理を順次廃止。集約製造の統一ブランドである「会津乳業牛乳」の新規展開に乗り出した。
以来およそ20年の商いを経て、福島県酪連(酪王牛乳)へ経営譲渡。平成2年、組合工場は連合会の会津工場に転換、引き続き生産拠点として運用された。同19年の事業整理で閉鎖後は、酪王乳業の会津営業所となっている(後に移転)。
◆会津乳業協同組合/協業組合の構成
発足メンバーは5社。組合長は、8割方の出資で中核を担った長谷川義雄氏(幕酪牛乳)。同氏の引退後、協業組合へ改組した頃には、武田初太郎氏(会津厚生舎)が就いている。
平成期の組合長は新納新氏(長生舎乳業/大沼郡)、相田茂氏(相田ミルクプラント/喜多方市)ほか、老舗の年長理事さんが受け持った。
各社とも組合への参画以降は会津乳業牛乳(のち酪王牛乳)の販売店を営んだが、現役の販社は長生舎と盛光舎(片浦牛乳店/耶麻郡)さんの2軒のみ。往時の組合は学乳の展開と納入先500店舗を合わせ、日量3万5千本(200cc換算)を捌いていたという。
◆県酪連の受託製造・掲載ビンついて
後年、協業組合の工場は、莫大な費用を要する乳機の更改問題に直面。義雄氏の後に理事として入った長谷川春雄氏は、依然最大のステークホルダーであって、実施となれば負担が極めて重い。氏は市況・将来性に鑑み、処理事業の売却を決断した。
酪王傘下に入って数年間は、福島県酪連・会津工場が生産を請け負う形で、会津乳業協のブランドは存続、協業組合の運営も続いている。
掲載は白牛乳、もしくは加工乳用らしき青刷りの一合瓶。コーヒー/フルーツは同様デザインの八角赤瓶だった。200cc瓶装は未見も、ほぼ同じ構えだろう。見た目は宮城の山田乳業さん(2)番瓶と良く似る。乳業資材の問屋は同じ所かも知れない。
― 謝辞 ―
乳業組合の発足年次・売却経緯ほか、長谷川様よりご教授頂きました。
― 関連情報 ―
会津乳業協の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 同・紙栓 (牛乳キャップとは)
会津乳業協の宅配受け箱 (牛乳箱を訪ねて)