<ブランドの特性と浸透・変革>
◆知名度に比して狭い販路
明治時代から昭和20年代末まで、「小岩井牛乳」の販路は盛岡市と農場周辺に限られた。市乳出荷量の実に98%が地元消費、全くのローカル銘柄である。日本の主要な乳業メーカーで最古の歴史を誇るが、市場展開は出遅れの感が否めない。
いっぽう「小岩井バター」は長距離輸送に耐え、昭和の頃には関東でも名の知られた高級品。しかし生産拠点は岩手の農場だけだから、市場シェアは低かった。昭和50年に至ってなお、小岩井の占有率は0.1%に満たず、圧巻の一番手は雪印乳業だった。
小岩井の伝統や、それを愛した宮沢賢治の存在、観光牧場の運営を通じ知名度は抜群だが、営業勢力は製菓資本・農協系に遠く及ばない。乳業でなく牧場色に立脚した経営方針か、既往業者の買収/系列化の動きも極めて少ない。
◆業容拡大と牛乳瓶の世代
小岩井農牧(株)が首都圏進出を果たすのは戦後、存亡危機に揺れていた昭和23年(後述)。東京都北多摩郡小平町にあった小児牛乳(株)(⇒関連:保証牛乳グループ)の郊外拠点を買収し、小金井牧場の操業を始めたことによる。
乳牛わずか12頭でスタート、当面は搾乳全量を明治乳業・烏山工場に卸した。間もなく「小岩井特別牛乳」(⇒関連:中部牛乳)を売り出すが、日に一合瓶200〜300本程度。「故障ばかりする中古のダットサンで出荷」の有様だった。
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画像上:小岩井農牧(東京)の乳製品(昭和30年代中期〜後期)…掲載の(1)番瓶と(2)〜(4)番瓶の間に流通と思しきデザインが写っている。 |
昭和29年、普通の市乳も商い始める。専属店舗は用意できず、森永牛乳の宅配所に併売を依頼。2年後、ようやく小岩井牛乳の販売所をデビューさせた。のち業界は一大成長期に入り、販売量が激増。小金井牧場では需要を賄い切れなくなり、昭和41年、ついに埼玉県狭山市・東京工場の落成に至る。
(1)番瓶は本拠地・小岩井農場で使用。東京(小金井牧場)も同じ瓶だったか、判然としない。続く(2)(3)番は、(4)番200ccと同時流通の色物(コーヒー・フルーツ)向け一合瓶か。(6)番200cc青瓶は学校給食専用品らしい。令和3年、東京工場(小岩井乳業)はビン詰めを全廃したため、現行瓶装は岩手工場(小岩井農牧)の小岩井農場育ちが唯一となっている。
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画像上:東京工場(埼玉県狭山市)の外観(昭和45年)…丸みを帯びた厚い屋根のフォルムと、全面ガラス張り(採光窓)らしき構えが目を引く。床面積はさほど広くないように見える。 |
◆操業の経過・小岩井乳業の新設
昭和32年、HTST殺菌を導入(東京が先行、岩手側は翌33年)。同40年、UHT殺菌に切り替え、同時にテトラパックへ着手。43年、小岩井純濃牛乳「まきば」を新発売。積極的な事業展開も、微妙なポジションで推移。民間牧場では日本最大規模、名前は売れているのに、それほど物が売れていなかった。
昭和51年、小岩井農牧(株)と三菱グループの一員である麒麟麦酒(株)は、乳製品の製造販売につき業務提携。関連事業を独立させ、その強化発展を折半出資の小岩井乳業(株)発足に託す。
営業開始にあたってパッケージデザインを刷新。旧来の菱形商標は引退し、(7)番瓶に移行。新たなブランドマークは複雑なイラストで、瓶への印刷は見送ったようだ。のち平成期に採用の軽量新瓶は、ほのぼのとした牧場の光景を、環状に描き込んであった。商品イメージの統一を考慮した結果だろう。
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