小岩井牛乳 小岩井牛乳
小岩井農牧株式会社/小岩井乳業株式会社
 東京都千代田区丸の内2-5-2(三菱ビル7F・本社)
 www.koiwai.co.jp / www.koiwaimilk.com

鉄道会社社長(野義真)・三菱財閥トップ(崎弥之助)・政府鉄道庁長官(上勝)、さらに宮内庁・下総御料牧場長ほか、錚々たる面々が創始育成した異色のブランド。明治24年、発起人3者の頭文字を取って小岩井農場が発足。岩崎家は運営に莫大な資本を投じ、明治32年に市乳、同35年バター発売に至る。小岩井農牧(株)の設立を経て、戦後は首都圏に進出。昭和41年、埼玉県下に東京工場が完成。51年、麒麟麦酒(株)と業務提携、事業の飛躍を期し小岩井乳業(株)を興した。


小岩井牛乳 (1)小岩井牛乳 (1)小岩井牛乳 (2)小岩井牛乳 (2)小岩井牛乳 (3)小岩井牛乳 (3)
小岩井牛乳 (1) (2) (3)

石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代初期〜中期

日本硝子製・正180cc側面陽刻
昭和43〜44年頃?

石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和44年頃〜50年代?

小岩井牛乳 (4)小岩井牛乳 (4)
小岩井純良バタのパッケージ(昭和30年代)

画像上:小岩井純良バタのパッケージ(昭和30年代)…半ポンド(225g)紙箱の半面。後先は良く分からないが、マルセイバターサンドの包装に似る。
小岩井牛乳 (4)

広島硝子工業製・正200cc側面陽刻
200cc移行後〜昭和50年代

小岩井牛乳 (5)小岩井牛乳 (5)小岩井牛乳 (6)小岩井牛乳 (6)小岩井牛乳 (7)小岩井牛乳 (7)
小岩井牛乳 (5) (6) (7)

広島硝子工業製・正200cc側面陽刻
200cc移行後〜昭和50年代

石塚硝子製・正200cc側面陽刻
200cc移行後〜昭和50年代

日本硝子製・正200cc側面陽刻
昭和50年代〜平成5年頃

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<ブランドの特性と浸透・変革>

◆知名度に比して狭い販路

明治時代から昭和20年代末まで、「小岩井牛乳」の販路は盛岡市と農場周辺に限られた。市乳出荷量の実に98%が地元消費、全くのローカル銘柄である。日本の主要な乳業メーカーで最古の歴史を誇るが、市場展開は出遅れの感が否めない。

いっぽう「小岩井バター」は長距離輸送に耐え、昭和の頃には関東でも名の知られた高級品。しかし生産拠点は岩手の農場だけだから、市場シェアは低かった。昭和50年に至ってなお、小岩井の占有率は0.1%に満たず、圧巻の一番手は雪印乳業だった。

小岩井の伝統や、それを愛した宮沢賢治の存在、観光牧場の運営を通じ知名度は抜群だが、営業勢力は製菓資本・農協系に遠く及ばない。乳業でなく牧場色に立脚した経営方針か、既往業者の買収/系列化の動きも極めて少ない。

◆業容拡大と牛乳瓶の世代

小岩井農牧(株)が首都圏進出を果たすのは戦後、存亡危機に揺れていた昭和23年(後述)。東京都北多摩郡小平町にあった小児牛乳(株)(⇒関連:保証牛乳グループ)の郊外拠点を買収し、小金井牧場の操業を始めたことによる。

乳牛わずか12頭でスタート、当面は搾乳全量を明治乳業・烏山工場に卸した。間もなく「小岩井特別牛乳」(⇒関連:中部牛乳)を売り出すが、日に一合瓶200〜300本程度。「故障ばかりする中古のダットサンで出荷」の有様だった。

小岩井農牧(東京)の乳製品(昭和30年代中期〜後期)
画像上:小岩井農牧(東京)の乳製品(昭和30年代中期〜後期)…掲載の(1)番瓶と(2)〜(4)番瓶の間に流通と思しきデザインが写っている。

昭和29年、普通の市乳も商い始める。専属店舗は用意できず、森永牛乳の宅配所に併売を依頼。2年後、ようやく小岩井牛乳の販売所をデビューさせた。のち業界は一大成長期に入り、販売量が激増。小金井牧場では需要を賄い切れなくなり、昭和41年、ついに埼玉県狭山市・東京工場の落成に至る。

(1)番瓶は本拠地・小岩井農場で使用。東京(小金井牧場)も同じ瓶だったか、判然としない。続く(2)(3)番は、(4)番200ccと同時流通の色物(コーヒー・フルーツ)向け一合瓶か。(6)番200cc青瓶は学校給食専用品らしい。令和3年、東京工場(小岩井乳業)はビン詰めを全廃したため、現行瓶装は岩手工場(小岩井農牧)の小岩井農場育ちが唯一となっている。

東京工場(埼玉県狭山市)の外観(昭和45年)
画像上:東京工場(埼玉県狭山市)の外観(昭和45年)…丸みを帯びた厚い屋根のフォルムと、全面ガラス張り(採光窓)らしき構えが目を引く。床面積はさほど広くないように見える。

◆操業の経過・小岩井乳業の新設

昭和32年、HTST殺菌を導入(東京が先行、岩手側は翌33年)。同40年、UHT殺菌に切り替え、同時にテトラパックへ着手。43年、小岩井純濃牛乳「まきば」を新発売。積極的な事業展開も、微妙なポジションで推移。民間牧場では日本最大規模、名前は売れているのに、それほど物が売れていなかった。

昭和51年、小岩井農牧(株)と三菱グループの一員である麒麟麦酒(株)は、乳製品の製造販売につき業務提携。関連事業を独立させ、その強化発展を折半出資の小岩井乳業(株)発足に託す。

営業開始にあたってパッケージデザインを刷新。旧来の菱形商標は引退し、(7)番瓶に移行。新たなブランドマークは複雑なイラストで、瓶への印刷は見送ったようだ。のち平成期に採用の軽量新瓶は、ほのぼのとした牧場の光景を、環状に描き込んであった。商品イメージの統一を考慮した結果だろう。


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<ロゴマークの変遷と変革>

菱形に“小”の字を詰めた、三菱の井桁マークに因む?家紋のような社章(商標)を、古くから用いた。競合他社の様々なマスコットキャラクター、昭和30〜40年代を賑やかす宣伝に比べ、小岩井のイメージはかなり渋い。

魅力的なアイキャッチの不在・マーケティング不足は、知名度と売り上げ乖離の一因だった。親しみやすい絵面は、社用トラックや広告看板などに採用された子供のイラストくらいである。

小岩井牛乳販売店の丸型ホーロー看板(昭和30年代中期) 小岩井牛乳販売店の角型ホーロー看板(昭和40年代中期)新たに制定されたブランドマーク(昭和51年)
画像左:小岩井牛乳販売店の丸型ホーロー看板(昭和30年代中期)
画像中:小岩井牛乳販売店の角型ホーロー看板(昭和40年代中期)
画像右:当初はギフト商品用に制定された新ブランドマーク(昭和51年)

昭和51年の小岩井乳業(株)設立で、それは大きく動く。小岩井の作るチーズ・バターの全量引き受け・販売を担当したキリンは、デザイン会社「中西元男事務所」にブランドイメージのリニューアルを依頼。

まず、ギフト市場の詰め合わせ商品に、「農場の豊かな自然と80年余の伝統、手造りイメージを想起させるパッケージ」をリリースしたところ…お歳暮商戦で「新デザインの贈答箱が爆発的な人気で、最盛期を前に売り切れ百貨店続出、売上は前年比273倍」の大成功を収める。いったい今まで何だったんだ…と突っ込みたくなるほどだ。

緻密な銅版画風の新ブランドマークは翌年以降、全ての牛乳・乳製品と、小岩井農牧(株)が扱う加工食品にも展開。やがて小岩井のコーポレートシンボルとなった。いっぽうレトロな菱形マークは、今も小岩井農牧の社章である。昭和50年代の(4)(5)番瓶を最後に表舞台から消えたため、すでに一般の馴染みは薄い。


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<小岩井農場の創成期と三菱>

◆小岩井農場設立端緒の語り草

「鉄道開発のため多くの美田良圃を潰してきた。この広大な荒地を開墾し、せめてその埋め合わせをしたいものだ」東北本線第四区線・仙台-盛岡間開通工事の現場視察後に設けられた宴席。政府の鉄道庁長官・井上勝は、沿線に広がる岩手の大原野を思いながら施工担当の日本鉄道会社副社長(後に社長)・小野義真にそう語る。

と、居合わせた三菱財閥の二代目社長・岩崎弥之助は、即座に開墾事業へ出資を約した…。小岩井の社史にも紹介される、明治のダイナミズム溢れる逸話。真偽は定かでないが、小岩井農場が各氏の連携で生まれたのは確かだ。

小岩井農牧の製品集合写真(昭和44年頃)
画像上:小岩井農牧(岩手)の製品集合写真(昭和40年代初期)…上掲(1)番瓶が写っている。小岩井デラックス牛乳にヨーグルト、王冠栓のコーヒーミルク、乳酸菌飲料アルペン(アルペンホワイト)など全て瓶詰めだ。

明治24年、三者の共同名義により開設。井上氏が実務にあたり、開墾初期の血路を開くも経営困難、32年に岩崎家へ委譲。弥之助の跡取り久弥は当初、運営を宮内庁の下総御料牧場新山荘輔らに委託。自らの参与は明治39年頃という。

農場たる官有原野の借地は広大、気候は極寒、岩手おろし吹きすさぶ火山灰の未開地。立ち上げは四苦八苦。創設者として小岩井の先頭に一字を刻む小野氏は、色々便宜を図ったろうが開拓の指揮はせず、井上・岩崎の仲介役を務めたらしい。

◆法人化と戦後の存亡危機

昭和13年、小岩井農場は法人化、小岩井農牧(株)となる。翌年、小岩井史上初の黒字決算を達成。基盤整備の長期努力に報いた。しかし戦後、GHQは「日本の畜産進歩のため」、小岩井や町村農場(北海道)、神津牧場(群馬県)といった基幹種畜場の再編を試み、農地解放財閥解体の煽りで、小岩井は解散・農業組合に転換の危機に陥る。

三菱財閥・岩崎家が保有する小岩井農牧(株)の株式は、「持株会社整理委員会」が全部没収。関係はなお続くが(そもそも後年に事業提携のキリンビールは三菱系)、大資本の後ろ盾を失った格好だ。実直に延々と不毛の地を開拓し続け、ようやく各種の成果が上がっている時期だけに、不運な話である。

最終的に買収除外の特例(指定牧場)が認められ、概ね戦前の規模を維持しつつ存続の方針が固まったのは、昭和24年の頃。一部開墾地の喪失、競走馬(サラブレッド)生産の放棄という代償はあったが、肝心の株式は従業員へ分配することで決着がついた(その後、資本増資にともない社員持株制度は廃止)。

◆小岩井と競馬・サラブレッドの育成

昭和初期の競馬界は下総御料牧場と小岩井牧場が二大勢力で、両舎育成のサラブレッドが覇権を争った。前記の通り戦後の粛清ムード高潮で、「農業的畜産とかけ離れた」この事業から、小岩井は撤退を強いられる。

事業清算を受け、競りに出したサラブレッドは、有名馬主も参戦して白熱・沸騰。かつてない高額で次々に買われていく。北海道や東北の牧場に散らばった小岩井産馬の子孫はやがて、シンザンなどの名馬を世に送り出した。


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