戦後間もなく、日米のクリスチャン有志が、超教派のキリスト教大学として創始。ICU・キリ大の略称で知られる都下の名門校。昭和27年、アメリカから寄贈された18頭の牛に始まり、以来20年ほど牧場・ミルクプラントを併設運営。各所へ卸売り、教職員・学生にも牛乳を供給した。
開学に際し、ニューヨークには支援財団が発足。GHQのマッカーサーも趣意に賛同・便宜を図るなど、様々な協力の輪が広がっていた。
初代総長は湯浅八郎氏。遡ること明治41年に渡米、カリフォルニアの開拓農場で働いた後、カンザス州立農科大学〜イリノイ大学へ進む。大正13年、長期留学を終えて帰国、京都帝国大学農学部の教授に就任。一時期は同志社総長も務めた。
◆牛さん遠方より来る
もともとクリスチャンの家柄に生まれた湯浅氏は、戦後、国際基督教大学の設立準備に奔走。この際、カンザス農科大学の同期生でカリフォルニア州マーセドの牧場主、アーネスト・E・ゲリー氏より、お祝いに乳牛寄贈の申し出があったのだという。
食糧難の折柄、大学は疲弊した農村再興の研究実践の場として、畜産物の直販事業を計画、三鷹市に取得した広大な用地へ農場建設を考えており、渡りに船の嬉しい話。
昭和27年に受け入れ体制が整い、海路はるばる牛さんが届く。内訳はジャージー種の牝9頭、ホルスタイン種の牝1頭、ヘレフォード種(肉用)の牡7頭・牝1頭だった。
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画像上:国際基督教大学の学校案内(昭和29年)…将来は大学院への発展が期待されていた「農村厚生研究所」の名が見える。ほか「栄養研究所」といったセクションもあり、こうしたところにも大学付属農場の存在意義があったのかも知れない。 |
◆異色の学内ブランド
北海道大学や岐阜大学ほか、農学部の酪農実習を目的とする牧場・ミルクプラントは、過去多数あった。いっぽう研究目的を含むとはいえ、関係学部を持たない大学が、産品直売と福利厚生のために運営した例は極めて珍しい。知る限り、日本国内で唯一と思う。
アメリカでも大学産の牛乳と言えば、農学部由来がほとんど。国際基督教大学の場合、講座とほぼ無縁に丸抱えしたわけで、世界的にもレアケースと言えそうだ。
ただ、ICUの当初構想には農学部の設置が含まれてはいた。雪印乳業の祖のひとり、黒澤酉蔵氏も熱心に働き掛けたものの、結局見送られている。
学内食堂に隣接の施設で低温殺菌・瓶詰めを行い、学食・売店に払い下げ。一部は他大学や病院へ卸売り、近隣住民に配達もした。工場直送の新鮮なジャージー牛乳、今となっては贅沢な味だ。附属農場では牛のほか、豚や鶏の飼育も行われたという。
◆掲載ビンについて
ICUの古い卒業生の方にお譲り頂いた一本。昭和43年、学生寮(カナダハウス)そばの食堂で飲んだものを記念に持ち帰った由。「飲み口から1cm位は少し濃く、ドロドロしていた」とのご記憶から、未均質・ノンホモ牛乳だったらしい。
牧場がスタートした時代を考えると頷ける。昭和27年は森永乳業が日本初のホモジナイザー導入にようやく漕ぎ付けた、均質牛乳の黎明期。機械は高価な輸入品で、昭和40年代に至っても、小規模プラントならば導入を見送っていたはずだ。
◆ICU牧場のその後
昭和44年を最後に牛乳処理工場の記録は絶える。掲載と同様のデザインに「要冷蔵」標示を加えた次世代までは確認済み。表示公正規約対応後、間もなくの廃止か。最盛期は50〜60頭を数えた乳牛も、最後は全て南ヶ丘牧場(栃木県)に売却されたという。
大学の発足当初とは違って衛生的な乳製品の確保が容易になり、牧場やミルクプラントの維持に負担感が生じたことは想像に難くない。周辺の宅地化で臭気・し尿処理の問題も起こり得る。手仕舞いの潮時と判断されたのだろう。
軍需工場跡のキャンパスは広く、大学は多角経営の一環で18ホールのゴルフ場も擁したが、昭和49年、敷地の大半を東京都へ売却。都は整備のうえ野川公園を開いている。
― 謝辞 ―
往時の様々な状況につきまして、Y様よりご教授頂きました。
― 参考情報 ―
Alumni News vol.136
(国際基督教大学同窓会)
創設期の回顧と心に浮かぶ人々(35周年記念特集)
(国際基督教大学リポジトリ)
ICU・国際基督教大学の土地はGOLF場だった?
(教えて!goo)
小説の舞台&装置01-1973年のピンボール
(ノベリスタ)
昭和50年代初期の大学周辺の航空写真
(地理院地図-電子国土Web)