森牛乳 (1)森牛乳 (1) 森牛乳 (2)森牛乳 (2)
森牛乳 (1)

森乳業(株)
埼玉県行田市大字忍171
山村硝子製・180cc側面陽刻
昭和40年代初期
森牛乳 (2)

森乳業(株)
埼玉県行田市大字忍171
大和硝子製・180cc側面陽刻
昭和40年代初期

「牛乳屋の小さい牧場には牛が五六頭モーモーと声を立てて鳴いていて」―往時の牧場風景が、田山花袋の小説・田舎教師(明治42年)の一節にも現れる、県下有数の老舗。掲載は昭和40年代初期流通らしき八角瓶2本。種類別や世代は判然としない。

正面に鎮座するマークは創業家の家紋・屋号か。現行CI「わたぼく・WATABOKU」を制定した平成4年までの旧商標だ。何を記号化した図案なのか、全く分からない。

森乳業の小容量アイテム(昭和57年)
森乳業の小容量アイテム(昭和57年)…テトラは充実の8種類。瓶装は表示公正規約を受け、「森牛乳」から「森乳業」の商号記載に。コーヒー牛乳の一合八角瓶が、200cc増量前の白牛乳瓶装と思う。

県下で育つチビッコには学校給食でお馴染み、ご当地の知名度は高い。以下、同社刊行の[森乳業九十五年史](昭和57年)より、創業〜成長期の話をまとめた。

◆農学校教師から牛乳屋さんへ

森乳業の原点は明治20年、旧忍藩(おしはん)士族の家に生まれた、森脩氏の牧場に始まる。氏は青年期、中村正直氏主宰の同人社に学び、農本主義の思想に開眼も、その後しばらくは静岡で農学校教師を勤め、牛飼いには遠い人生を歩んでいた。

しかし教職は一生を捧げる仕事と思えず、高月給の待遇を捨てて上京。当時の先駆的畜産・搾乳業で身を立てるべく、飯田町・松尾健治氏の長養軒に牧夫見習いとして入る。ここで最新式の牧場・乳業経営を学び、郷里での開業計画を練り上げた。

◆森牧場・ウシモリの始まり

約2年間の牛乳屋さん修業を経て明治20年、忍町(現・行田市)に森牧場を開設。まだ牛乳は高級滋養剤、代用母乳の引き合いしかなく、販路開拓は専ら医師や産婆の効用宣伝に頼った。町方勘定頭を勤めた父の名前・信用にもずいぶん支えられたという。

武士の商法とは一味違う、かつて学んだ農業立国の理想を胸に努力を積み重ね、やがて森家・森牧場は「ウシモリ」の愛称で地元に親しまれるようになっていく。

森乳業のリッター製品一覧(昭和57年)
森乳業のリッター製品一覧(昭和57年)…波打つ青と水色は、往時のイトーヨーカドーPB牛乳。各種ジュース、「むさしの」や「健乳ファースト」、1.5リットル幅広パックも見える。

◆行田馬車鉄道・行田自動車と行田電燈

明治30年代、市域は足袋を中心に縫製業が活況を呈し、布屋や材料屋、ミシン屋、買い付け人が行き来して大いに賑わった。脩氏は地元の実業家で旧知の今津徳之助氏とともに、この足袋景気に乗った複数の先進事業に携わる。

明治34年、運行廃止した都下路線のレール資材を買い取り、吹上駅―行田市街間に行田馬車鉄道を敷設。旅客・貨物輸送を行い好評を得て、後には乗合自動車(タクシー)運行へ発展。新駅や同業者の出現に難渋するも、大正末期まで続いた。

また一帯の足袋屋の徹夜仕事、ミシンの動力源として、電灯・電気需要が生じる。明治43年、脩氏ら多数の合資で火力発電を行う行田電燈(株)が興り、行田・鴻巣・吹上エリアに配電を実現。これは戦時に東京電燈へ企業統合、消滅した。

◆戦後停滞・足袋産業の失速

戦中〜戦後、飼料・資材・労働力欠乏に見舞われ、牧場運営は大きく後退。脩氏の没後、家督を継いだ貫一氏は、東京の製薬会社に勤めたこともあって森牧場は中心人物を欠き、なかなか本格的な再興へ乗り出せずにいた。

ところで行田の足袋産業は戦後、全盛期を謳歌したのち、昭和30年代に入って需要激減に直面。零細の足袋屋さんは言うに及ばず、関連産業も壊滅的なダメージを負う。

破産したミシン会社のセールスマン・三友三之助氏は、失職を機にヤクルトの販売店を始めた。「ビン詰め工場(ボトラー)も作って、日配一万本を目指して欲しい」仕入れ元の本社筋に手腕を認められた三友氏は、釣り仲間の人脈を辿り、森牧場を訪ねる。

◆新人材を得て再興・法人設立の経緯

三友氏の希望は「ミルクプラントの一部賃借」。ただ、実務担い手の不足する森牧場(貫一氏)は、「ヤクルトと森牛乳の営業基盤を合わせて、一緒にやらないか」。話は想定外に進展。昭和32年、森乳業(株)が発足。三友氏は専務に遇された。

夏季、アイス(キャンディー)屋との競合で原料乳不足に陥った際は、創業夫人が脩氏と篤い親交のあった熊谷の鯨井乳業(くじらい牛乳)社長に直談判。鯨井氏は争奪戦の厳しい状況も省みず、森への斡旋を快諾してくれた、とのエピソードも残る。

◆学校給食用牛乳で急成長

昭和32年、農林省は消費拡大・乳価向上のため、給食牛乳の本格展開(脱脂粉乳の漸次廃止)に踏み切った。市販に比べ卸値は安い。「制度は本当に続くのか?」当時業界は家庭宅配がメイン、疑心暗鬼のところ、森乳業は積極的に進出。

森牛乳が納入される学校給食の風景(昭和40年代後期)
森牛乳が納入される学校給食の風景(昭和40年代後期)…植木鉢型のテトラパック搬送ケースが懐かしい。木製の受け箱や通い函は、レトロな価値が生まれて比較的よく残るが、この位の時代のプラケースは、意外と現物が見つからない。

大手メーカーの囲い込み、農協系プラントの勃興に対し、企業化の遅れで販路拡張が困難な森乳業は、巨大市場・学校に活路を見い出すほか、選択肢のない状況とも言えた。

給食重視の方針は当たり、同社は飛躍的に発展。昭和50年代、県下学乳の25〜35パーセントを占める第一位、二番手の業者に倍近い大差を付けて圧倒した。

◆テトラパック移行・瓶装の委託状況

森乳業の自社瓶装撤退は、全国的にも早い。昭和45年に落成の新工場は、既に紙パック(テトラパック)充填機のみだった。以降、ビン詰めは興真乳業(コーシン牛乳)、のちトモヱ乳業に委託。今は足柄乳業(共和酪農)が製造、プラ栓+軽量新瓶である。

テトラ推進は行政の希望。埼玉県は「ビン破損の危険排除と、学校側の返却時、空き瓶の数量チェックが面倒だから、全量を紙容器で納入すべし」と強く要請したらしい。

新工場は来たる変化を予め織り込み、ワンウェイ容器に特化した設備を計画。ところが梅雨に祟られ工期が伸びた。新学期に間に合わず、春先は雪印乳業の熊谷工場やゼンラクの東京新工場に、テトラパック牛乳の生産を頼む羽目になったという。

― 謝辞 ―
森乳業のビン製品委託状況など、kazagasira様にご教授頂きました。

― 参考情報 ―
森乳業の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 同・紙栓 (牛乳キャップとは)
同・紙栓(トモヱ乳業委託) (職人と達人) / 同・紙パック製品 (愛しの牛乳パック)
同・木製受け箱 (古今東西散歩) / わたしとぼくの森牛乳 (OPQR 日々)


創業> 明治20年、森牛乳店として
昭09> 森修/埼玉県北埼玉郡忍町忍
昭24> 忍町は市制施行し行田市となる
昭31> 森牛乳・森実/埼玉県行田市大字忍171
設立> 昭和32年、森乳業(株)として
昭34〜36> 森牛乳/埼玉県行田市大字忍171 ※法人化反映せず
昭39〜44> 森乳業(株)/同上
昭45> 富士見町に新工場を建設、漸次移転
昭46〜47> 同上
昭48〜平13> 同上/埼玉県行田市富士見町1-3-2
電話帳掲載> 同上
公式サイト> http://www.morimilk.co.jp/

処理業者名と所在地は、牛乳新聞社「大日本牛乳史」・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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