首都圏・関東エリアに展開する、県下随一の広域メーカーさん。近年拡充は目覚しく、単拠点で日本最大の生産能力を持つ処理工場を建造、ミャンマーほかアジア圏での事業・技術支援を行うほか、ケーブルテレビ(平成29年廃業)や航空輸送の子会社も傘下に置く。
本社に牛乳博物館を併設、国内外の関連アイテムを収蔵。奥州市牛の博物館の企画展・ミルクの夜明けに貸し出された展示品が、その図録に多数掲載されている。
◆お肉屋さんから牛乳屋さんへの転身
母体は昭和16年に設立の関東畜産工業。主に食肉卸し・ハムの製販、戦時は牛乳からカゼイン(接着剤)の抽出を手掛けた所で、戦後、古河食品工業に改称した。
昭和31年、富谷牧場(西茨城郡岩瀬町)が、経営不振に陥った同社を買い取り、従前業務を廃して乳業事業へ転換・一本化を図ったのがトモヱ牛乳の始まりである。
郷里から古河に出て、トモヱの看板を掲げた中田俊男氏は、富谷牧場の次男。当時の農村のこと、長兄・清一氏が実家を継げば、そこに自分の居場所はない。古河市での起業は、「自分の根城をここに作る」という覚悟の挑戦だった。
◆トモヱ牛乳・銘柄と商標の由来
ローカル色の濃い富谷の銘や中田の名前は用いず、心機一転「トモヱ」新規ブランドを立ち上げ。「この地に健康を届ける新しい会社にしよう」との想いを込め、古河の総領守・雀神社(お雀さま)の社紋(巴)にあやかり、左三つ巴の紋を採用した。
雀神社の社紋は三つ銀杏。だいぶ形が違うのだが、つまるところ三つの形、生産者・製造者・販売者の三位一体を象徴するマーク、の主旨だろう。
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画像上:トモヱ乳業の工場外観(昭和50年代)…現在の古河配送センター(幸町)と見られる。 |
◆学乳と自衛隊、白とレモンの草創期
当初はもちろん顧客基盤ゼロ。病人や幼児、産後の婦人向け、薬餌代わりの散発需要ばかり。得意先の確保に難渋も、茨城・栃木両県の学校給食指定業者となり、また陸上自衛隊古河駐屯地に納入を実現、集団飲用で業績を伸ばしていく。
昭和37年、古河食品工業をトモヱ乳業と改め、名実ともに牛乳屋の体裁が整う。往時のラインナップは普通の白牛乳とレモン牛乳(⇒関連:関東牛乳)が二本柱だった。
加工設備が貧弱で、原乳余剰もしばしば。一時は旧友が経営する沼津の乳業メーカーに余乳を受け入れて貰っていたが、昭和40〜50年代に処理施設を漸次増強。練乳、バター、ヨーグルト、粉乳の順に製造品目を増やし、苦境を打開した。
◆現行のビン製品・掲載瓶について
掲載上段は牛乳用の200cc水色瓶と、色物向けの180cc赤瓶。巴紋とUltraProcessの筆記体がレトロな雰囲気。業容に比して古瓶残存は少なく、入手機会に乏しい。
平成10年、乳業施設再編合理化に応じて富谷牛乳の処理加工を引き受けると、下段の「TOMOE/TOMIYA」両ブランド併記の共通瓶が登場した。富谷牧場とトモヱ乳業は別法人ながら中田家の同族会社、それゆえ可能な展開だ。
昭和44年、工場刷新の折に紙容器充填ラインを導入、ワンウェイ化への着手が早い。平成18年前後には自社瓶詰めを中止、以降は栃木乳業に委託。紙キャップ記載の銘は「ふるさと牛乳」に統一済みで、「トモヱ牛乳」「富谷牛乳」は既にない。
― 参考情報 ―
調査情報NO.36 2012年10月号 (筑波銀行)
トモヱ乳業社長のインタビュー記事 (古河っ子ブログ)
トモヱ乳業の紙栓(1) / 同・(2) (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙栓 (牛乳キャップとは) / 同・紙パック製品 (愛しの牛乳パック)
富谷牛乳 (一匹狼犬の牛乳キャップ収集活動の記録)