創業は大正初年。バラのマークでお馴染みの、広島ローカル銘柄。平成10年、乳業施設再編合理化に応じて自家処理を中止、工場は閉鎖。以降、統合先の広島協同乳業(名糖牛乳)が岸本ブランドを引き受け、販売を継続している。
・岸本乳業の紙栓
/ 同・広島協乳OEM
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
・広島協同乳業「岸本3.5牛乳」13年8月
/ 同・16年5月
(愛しの牛乳パック)
製造委託元の法人として、岸本乳業さんは健在なのだろうか。広島協乳の公式サイトに岸本系アイテムの全部は載っておらず、商流が良く分からない。
◆岸本静雄氏による製酪事業
創業者・岸本静雄氏は地元農家の生まれ。親の代から牛飼いで、製酪事業の将来性を肌身に感じていた。明治42年、21歳で家業を継ぐや、引き続き畜牛の繁殖と改良に打ち込む。同時に生産だけでなく、処理加工まで行うべきだと確信した。
大正元年、酪農先進地の北海道へ視察に赴き、バター製造の現場を実地に検分。広島へ戻ると直ちに自らの牧場にも加工場を併設して、直接販売の途を拓いた。精力的な活動は周辺農家へ波及、付近一帯の乳牛導入促進に繋がっていく。
◆データ管理で牧畜発展
静雄氏は乳牛の血統管理に細心の注意を払い、また個体の泌乳能力検定を通じた優良種の選別が重要と考え、当時先進的な牛群のデータ管理を実施。
良牛の分譲や管理手法の教示を通じて同業者の指導にあたり、畜産関係の品評会・共進会を後援。さらに牧草・飼料の栽培に精通し、改良種子を無償配布のうえ普及を図るなど、県下酪農の発展に多大な功績を刻む。
昭和初期、岸本牧場は乳牛飼養100頭を誇り、市乳処理も始まって商売が確立。しかし酪業に生涯を捧げた静雄氏は昭和20年、原爆で命を失った。
◆広島協乳と岸本乳業のブランド融合
平成27年、広島協乳はメイトーと同じだったコーポレートロゴを、HiroKyoの字を添えた岸本のバラマークに変更。地場企業アピール・ブランドイメージ融合の方針を採る。傍流の承継銘柄は、一般に数年で終息に至るケースが多く、珍しい展開だと思う。
自社工場での瓶詰めは、平成26年に「広島わかば」のみへ縮小。穴埋めは系列工場のメイトー製品移送や、クボタ牛乳(島根県浜田市)の調達とし、岸本牛乳の瓶装は消滅。現在、岸本の名前が残るのは、紙パック(200/1000ml)だけのはずだ。
◆バラのマークとバラ園・掲載瓶について
かつて岸本ミルクプラントはバラ園(新庄バラ園)を併設。跡地がマンションに建て替わった今も、そのエントランス共用部の小公園や隣地の本宅に少し花が咲くらしい。趣味のバラ栽培、工場敷地にバラ園、商標にバラを採用の流れは、神奈川のタカナシ乳業さんと良く似る。
・雲石街道の旅その7〜新庄橋から長束へ
(大根役者)
・雨の日の発見
(あ木らの家) / 三篠北町中央バス停 (看藝累記)
・新庄バラ園・岸本牛乳の記憶が蘇る
(awakin blog)
上掲(4)番瓶は(3)番と並行流通の色物向けか。底部の広告欄は「MILKCOFFEE」と「FRUIT
MILK」に加え「MAMAGURT(ママグルト)」をラインナップ。
ママグルトは森永マミーや明治パイゲンと同系の乳酸菌飲料。平成10年の統合後、広島協乳が引き続き商い、同20年代に一旦打ち切り?も、28年に復刻・リニューアル版が出た。そのほか珍しいところで瀬戸内レモン(⇒関連:関東牛乳)なる乳飲料があった。
― 関連情報 ―
岸本乳業の紙栓
(牛乳キャップとは) / 広島の牛乳のふた
(職人と達人) ※IAキャッシュ
岸本牛乳とメイトーモカブレンドコーヒー
(ぽんげ乳業)
広島協同乳業の紙パック製品
(愛しの牛乳パック) / 広陵高校見学会 (高田机上)
デパートの屋上から(4)そごう広島店本館追加編
(広島コンシェルジュ)