甲府 高原牛乳甲府 高原牛乳

(記事下段)

甲府 高原牛乳

甲府高原酪農協同(株)
山梨県甲府市山宮町26
東洋硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期〜後期

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戦後、清里への乳牛導入を支援した実業家・野坂穣氏と、開拓地の有志が連携。甲府に工場を据え、市乳直売に臨んだ往年の銘柄。「SNOW MOUNTAIN BRAND」は八ヶ岳山麓のイメージ。およそ10年に渡る商いも、昭和37年前後に製造中止、ブランドは消滅した。

戦時の原料乳不足に際し、カルピスが拓いた甲府盆地の酪農地帯、および同工場とも関わる。本項は甲府⇒清里の順に状況をまとめた。

◆交通に阻まれた甲府の酪農

甲府市域における酪農の出足は遅い。昭和10年頃、農用地に乏しい千塚・山宮地区を皮切りに、ようやく乳牛の飼育者が増え、周辺に波及する。

農事と無縁な牛乳屋さんは、古くより存在(⇒牛乳/峡陽文庫)。明治〜大正期の甲府には、精乳舎、洋乳館、牧牛舎、保壽舎の屋号が見える。これら業者は、後述する八ヶ岳山麓に育成預託牛を置き、農村部へ牛飼いの営みをもたらす。

ただ、当時の山梨は交通網の整備が不十分。東京市場に近いが物流に難があり、大手乳業の進出・資本投下の的から外れ、酪農の進展は牛歩の如きスピードだ。

◆カルピスによる酪農基盤の構築

そんな停滞ムードにカルピスが注目する。戦時、牛乳は乳幼児向けが最優先。嗜好飲料のカルピスは必需品と認められず、原料乳不足が深刻化。自らの集乳基盤を持ちたいが、有望な酪農地帯は殆どが明治・森永の牙城。付け入る余地が全く無い。

カルピスは不遇をかこつ空席・甲府エリアに乗り込み、自社基盤の構築を決した。昭和13年、現地にカルピス酪農組合を結成。翌14年に甲府工場を開き、牛乳増産に努める。

昭和20年の空襲で工場は焼失。事業継続が危ぶまれたものの、終戦を迎えて復旧に邁進、製造を再開。同27年、カルピスの生産を大阪工場に移し、甲府はバター工場へ転換。36年「甲府原乳処理場」となって、のち48年には閉鎖に至っている。

◆清里開拓の北と南

清里駅を境に、北側はポール・ラッシュ博士の高冷地実験農場(キープ協会)で、当地の代名詞的な所。いっぽう南側の開拓を担ったのは、主に戦前〜戦後の入植者さんらだ。

八ヶ岳地区は小河内ダム(奥多摩湖)に水没する村からの集団移転、昭和13年の入植。帝都水源の犠牲、やむなく移り住んだ高原地帯では、自家用水確保に難渋の理不尽。厳しい農地開墾の過程で、有畜農業も試みられたという。

清里開拓70周年記念式典に出席しました (m-yasuikeの日記)

◆清里における酪農の萌芽

前出の洋乳館は大正中期、清里に育成牧場を設ける。昭和18年に茅野達一郎氏(のちキープ協会・農場長)が乳牛の分譲を受け、周辺農家に斡旋。新海牛乳(甲府市穴切町)への生乳出荷に漕ぎ着けたが、餌不足で早々に頓挫。

戦後の復活は昭和25年、茅野氏の教導で牛飼いを始めた根津吉夫氏と、県営開拓第1号(昭和9年)に属する最古参の入植者・小林貫一氏の奮起。勉強・研究会の場もできて、多数の若者が集い、酪農熱を高めていった。

◆野坂農場と戦後の酪農発展

昭和20年5月、老舗の香料メーカー・湘南香料は、東京大空襲を受け中野区の本社・工場が全焼。社長の野坂穣氏は、あらかじめ疎開先として移転準備を進めていた高根町清里に工場を、隣接する南牧村平沢に自身の居宅を移した。

終戦を迎え、高冷火山灰地での農産や食糧問題を考えた野坂氏は、酪農以外に道はないと確信。香料会社経営のかたわら野坂農場を拓き、乳牛を入れて酪農を実践。

ひとつ井戸のもとで No.52 [心の小径] (知の木々舎)

湘南香料の会社広告(昭和28年)湘南香料の会社広告(昭和39年)
画像上:湘南香料の会社広告(昭和28年、同39年)…本社・東京工場は中野区江古田、清里工場が北巨摩郡清里村にある。後者の拠点では香料・濃縮果汁に加え、乳製品の加工も手掛けていた。

また一帯の農家に乳牛の貸与や融資を行い、各界識者を講師に招いて「八ヶ岳農民福音塾」(根津氏や小林氏も出席)を催すなど、鋭意普及に務めた。野坂氏は内村鑑三に薫陶を受けた(無教会派)クリスチャンだったそうだ。

◆甲府高原酪農協同の成立

諸氏の啓蒙活動が奏功、開拓農村に乳牛導入が進む。昭和20年代後期、野坂氏は各所の出資を得て甲府高原酪農協同(株)を設立。「高原牛乳」の市乳処理事業がスタート。

恐らく株主には、カルピスや甲府の酪農組合が含まれたと思う。氏の香料会社は柑橘エッセンス類の取引を通じ、戦前来カルピスと繋がりもあった。ミルクプラントは消費地の甲府へ設置。清里の湘南香料工場では、バターとチーズの加工に着手した。

酪農振興法、八ヶ岳集約酪農地域指定の追い風も吹く。野坂氏のもとに集った有志一同は、高原牛乳・カルピスへの生乳出荷グループを形成。他方では八ヶ岳酪農協同(現・八ヶ岳乳業)系、森永乳業派閥も出現。清里酪農の最盛期、集乳合戦は熾烈を極めた。

◆高原牛乳の終焉・酪農から観光へ

「高原牛乳」の隆盛は束の間。雪印と提携した八酪、名糖と組んだみづほ牛乳、和光堂資本の入ったサンキョーなど、地元メーカーと大資本の合体続々、大苦戦。昭和38年前後に製造を中止。同40年、甲府高原酪農協同は解散・廃業した。

最晩年の拠点はカルピス甲府工場(甲府市東二条通)に同居の記録が残る。「高原牛乳」撤退後、カルピスの関係会社として?しばらく運営が続いたのかも知れない。

酪農の先行き不透明な昭和39年夏ごろ、八ヶ岳に増え始めた旅客(キャンパー)を見たある移住者さんが、民宿を開業。40年代、美しい牧場風景の広がる清里はマスコミで頻繁に紹介されるようになり、避暑地・観光業の町へと変貌を遂げてゆく。

― 参考情報 ―
清里の開拓を語る〜ゼロからの出発 (八ヶ岳南麓景観を考える会)
山梨県清里高原における観光地域の形成 (静岡大学学術リポジトリ)


■甲府高原酪農協同
設立> 昭和20年代後期?
昭31> 甲府高原酪農協同(株)・山田正一/山梨県甲府市山宮町26
昭34〜36> 甲府高原酪農協同(株)/同上
自家処理撤退・独自銘柄廃止> 昭和38年前後
解散・廃業> 昭和40年
電話帳掲載・公式サイト> 未確認

■カルピス・甲府工場
開設> 昭和13年、カルピス製造・甲府工場として
昭22> カルピス製造(株)・三島海雲/山梨県甲府市東二条通39
昭23> カルピス製造はカルピス食品工業に改称
昭26〜39> カルピス食品工業(株)甲府工場/同上
昭46〜47> カルピス食品工業(株)/同上
工場閉鎖> 昭和48年
電話帳掲載> 未確認
公式サイト> https://www.calpis.co.jp/

処理業者名と所在地は、[全国工場通覧]・日本乳製品協会 [日本乳業年鑑1951年版]・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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