磐井牛乳 (1)磐井牛乳 (1) 磐井牛乳 (2)磐井牛乳 (2)
磐井牛乳 (1)

磐井牛乳処理場⇒(資)磐井牛乳
岩手県一関市山目字竹山53-1
大和硝子製・市乳180ml底面陰刻
昭和30年代初期
磐井牛乳 (2)

(資)磐井牛乳
岩手県一関市中央町37-13
山村硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代初期〜中期

磐井牛乳 (3)磐井牛乳 (3) 磐井牛乳 (4)磐井牛乳 (4)
磐井牛乳 (3)

(資)磐井牛乳
岩手県一関市中央町37-13
山村硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代初期〜中期
磐井牛乳 (4)

(資)磐井牛乳
岩手県一関市山目字竹山53-1
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代初期〜中期

磐井牛乳 (5)磐井牛乳 (5) 磐井牛乳 (6)磐井牛乳 (6)
磐井牛乳 (5)

(資)磐井牛乳
岩手県一関市中央町37-13
山村硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期〜後期
磐井牛乳 (6)

(資)磐井牛乳
岩手県一関市中央町37-13
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期〜後期

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戦後20年ほど商われたローカル銘柄。かつて地元では岩手県南乳業(株)(一ノ関牛乳商業協同組合)と並ぶ2大勢力だった。しかし競争激化のすえ、昭和40年代中期に製造より撤退、ブランドは消滅。以降は森永乳業の販売店さんとなっている。

当地の市場均衡は雪印乳業が破った。北海道で力を蓄え、満を持して本州に進出を図る同社は、まず岩手県下の拠点確保に臨み、昭和27〜28年にかけて一関工場の新設と県南乳業の買収を完了。直接経営に乗り出し、シェア争いが激化していく。

◆掲載びん・各種の標示について

恐らく初代の印刷瓶装から、自社銘柄の廃止に至る晩年までの6世代。いくつかは同時期に並行流通したとも思う。様々なキーワードが踊る、実に賑やかな構え。磐井牛乳さんは発展途上に雪印という王者と戦う羽目になったわけで、その苦闘の一端?が垣間見える。


「太陽の瓶詰」「太陽瓶詰」

当時の大ヒット商品・森永ホモ牛乳の宣伝文句を拝借したもの。「一日分の日光浴に相当するビタミンD、太陽の瓶詰め」というキャッチコピーが元ネタ。

「完全冠帽」
ポリフードを被せた衛生的な包装の強調。昭和30年代初期までは紙製の掛け紙が主流であり、水に濡れれば破れやすく、密閉感に乏しかった。

「ママの美容と坊やの健康に」
全国の乳業が横断的に使ったフレーズで、出自は判然としない。中部・近畿地方での採用例が多い(⇒山本牛乳/名古屋牛乳/中部牛乳)。

「明治ヨーグルト」「森永フルーツヨーグルト」
宣伝欄に競合他社の製品をラインナップ。大手乳業は地方進出の際、提携・買収の端緒に傍系アイテムの併売取引を持ち掛けることがあった。磐井牛乳さんは明治ヨーグルトの請け売りに始まり、のち森永へ鞍替えしたと見える。

「磐井ヨーグルト」「磐井ヨーグルトミルク」
翻って(2)番瓶の頃は、オリジナルの醗酵乳・乳酸菌飲料を掲げるわけだが、既に「明治ヨーグルト」併記もあり、提携は早い段階で進んでいた。

「ビタミン牛乳」「均質牛乳」
ビタミン牛乳は文字通りビタミン添加、今でいう乳飲料のカテゴリ、では均質牛乳(ホモ牛乳)が成分無調整の白牛乳だったかというと、そうとも限らない。かつては別建ての、また違う乳飲料規格の商品とする例も多かった。

飲用乳は自社ブランドを展開しつつ、多彩な商材を擁する雪印に対抗するため、手間のかかるアイテムを他社に卸してもらうのは、合理的な経営判断だろう。

コーヒー牛乳とかフルーツ牛乳、あるいは乳酸菌飲料は、「原液を調達し混ぜれば出来る」が、醗酵過程を含むヨーグルトとか、チーズ、バターといった乳製品は、専用の加工ライン(設備投資)とノウハウが要る。中小メーカーにとって取り扱いのハードルは少し高い。


創業> 不明ながら戦後?
昭31> 磐井牛乳・小野寺夘一郎/岩手県一関市山目字竹山53-1
昭32> (資)磐井牛乳を設立
昭34〜40> 磐井牛乳処理場/岩手県一関市中央町37-13
昭41〜44> 同上/岩手県一関市中央町37-2
電話帳掲載> 「(資)磐井牛乳」「森永牛乳一関販売所」/岩手県一関市宮下町11-7
自家処理撤退・独自銘柄廃止> 昭和45年前後
公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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