福島西部、栃木と県境を接する旧・田島町にあった農系ローカル銘柄。往時に巻き起こった会津地方での生乳取引紛争を背景に、昭和34年、ミルクプラントを開設。のち10年ほど商うも経営芳しくなく、会津酪農協(会酪牛乳)に吸収され、銘は消滅した。
掲載は横綱の土俵入りをトレードマークにあしらう堂々の一本。由縁は不詳。牛乳の王様、最高品質といった含意だろうか。町出身の有名力士がいたわけではないようだ。
 |
|
画像上:落成直後の南会津東部酪農協の牛乳処理工場(昭和33年末)…場所は会津鉄道会津線(当時は国鉄会津線)・会津田島駅のすぐ裏手。貯水塔のタンク部分に、掲載瓶と同じ相撲取りのマークが見える。[田島町史 第9巻]より(siggraph2016による自動着色)。 |
◆森永の独占地盤に名糖が殴り込み
政府による磐梯山麓集約酪農地域の指定を受け、知事裁定でその中心工場に協同乳業(名糖牛乳)が選ばれたのは、昭和32年のこと。戦前来、福島市に製造拠点を置く森永乳業の縄張りに、新興メーカーの協乳が食い込んだことは、大きな波紋を呼んだ。
会津地方では平野部を稲作が占め、牛飼いは山間部に偏る。冬は積雪で輸送に難が多く、大手メーカーは直接進出して来ない。本項の南会津東部酪農協も、森永の福島工場に遠距離送乳するなどしていた。均衡を破る協乳の進出に、農民の不安と期待が交錯する。
◆名糖への一本化は計画倒れ・行き場を失う牛乳
しかし協乳は、折からの業界不況にあって工場/集乳所の新設に着手できず、また、発展途上かつ調達効率の悪い会津地方への資本・人員投下をためらった。特に本項組合の生産生乳はもとより計画外、無理に森永との結び付きを壊すことはしない…とまで言明する。
一帯の原料乳は増産傾向にあり、地元業者への卸しだけでは消化し切れず、協乳へ一元出荷の目途が立たぬうち、腐らせてしまうケースも出てきた。大手2社の健全な競合で酪農事業の底上げ・発展を狙っていた行政の目論見は、完全に潰える。
協乳進出を主導した耶麻酪農協と、それ以外の組合―会津酪農協、会津中央酪農協、会津東部酪農協(⇒関連:会津厚生舎)、
南会津東部酪農協―の対立も激化していった。
◆地産地消を図る「横綱牛乳」の創始と終焉
混乱収拾のため、福島県酪連(後年に酪王牛乳を立ち上げ)が会津若松市に直営の基幹集乳所を設けるいっぽう、本項組合に対しては可能な限り地元消費を目指すべしとして、県が農林漁業資金を斡旋。これに応じて昭和34年、「横綱牛乳」の処理直売が始まった。
余剰乳は県酪連が引き受ける体制でスタート。営業の様子を伝える資料に乏しく規模感は良く分からないが、日量で数百本程度、町域限定のささやかな商いだったはずだ。軌道に乗るには至らず、昭和45年、会津酪農協に吸収合併され、横綱引退の仕儀となっている。