往年の喜多郡大洲町に発足。戦後15年間、一帯に商われた農系ミルクプラント。昭和42年、愛媛県酪連(四国乳業・らくれん牛乳)に市乳事業を移管。以降は生乳出荷に専念の体制に転じ、独自銘柄は廃止されている。
シンボルマークは「酪」の字を「キ」「タ」で丸く囲んだ構え。空き瓶を弄ぶ赤ちゃんの絵は、長野の山本牛乳や本郷牛乳とそっくり。乳業資材代理店の定型素材だろう。
平成25年に南予酪農協(宇和島市、旧・南酪牛乳)を吸収合併。県下では愛媛酪農農協(東温市、旧・河南牛乳)とともに、今なお健在の酪農専門農協である。
◆市域の酪農黎明期
先駆は明治初期、米国より乳牛輸入を敢行した下井小太郎氏で、これは士族授産事業の一環だった。大正初年に村上牧場(のち大洲牧場)と谷脇牧場(のち旭牧場)が現れ、昭和8年には森牧場も出来、各々が搾乳販売を手掛ける。
このころ養蚕依存から脱却すべく、周辺農村は多角化を模索し始めた。上記の牧場が農家に乳牛飼養を委託したことで、一帯に酪農の営みが浸透していく。
昭和9年、伊予大洲乳牛販売購買利用組合が成って、農民自ら市乳販売に乗り出す。16年には県農会・喜多支部が、食糧増産・軍事用カゼイン製造のため、乳牛1,000頭の振興計画を発起。しかしいずれも成果は乏しく、不調に終わった。
◆喜多酪農協の誕生
戦後は昭和25年に至っても、喜多郡下の乳牛は160頭ほど。今ひとつ伸び悩んだが、各集落に酪農組合が結成され、徐々に復興・成長を遂げる。28年、大洲、菅田、三善、白滝の4組合が合併、ついに喜多酪農業協同組合が誕生。
前身組合の事業仔細は不明ながら、とにかく喜多酪農協は直ちにミルクプラント経営・市乳処理に着手。掲載の独自ブランド「喜多酪牛乳」を売り出した。
大洲および周辺郡市は昭和30年、農林省・南予集約酪農地域指定を受け、各種助成の恩恵にあずかる。37年には明治乳業が進出、大洲工場を設置。酪業は急速に発展した。
◆業容拡大・らくれん牛乳へ
喜多酪の商いは順調で、販売量の拡大に生産が追い付かないこともあった。一時は肱川酪農牛乳処理場(喜多郡肱川町、肱川農協の酪農部門)を借り受け、肱川支部(分工場)とし、増産体制を敷いた様子もうかがえる。
しかし市況の変動や中央酪農政策は、県下畜産の集約を強く促し、地域ごとに散在する農系プラントの合理化・基盤強化が共通認識となっていく。
昭和40年、愛媛県酪農業協同組合連合会(県酪連)の設立に参画。喜多酪農協の生産拠点は県酪連・大洲工場に転換。間もなく組合単位の市乳事業は、新ブランド「らくれん」に全部統合され、「喜多酪」銘は消滅。大洲工場も閉鎖に至っている。
― 関連情報 ―
喜多酪農業協同組合の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
喜多酪農(現・大洲らくれん) (mogura2号のブログ) / 同・宅配受箱 (牛乳箱を訪ねて)
「喜多酪農前」バス停(大洲市) (愛媛・南予発!いいとこなんよ)
喜多・南予酪農協、組合員減少で合併へ (愛媛新聞)