近藤牛乳 (1)近藤牛乳 (1) 近藤牛乳 (2)近藤牛乳 (2)
近藤牛乳 (1)

(名)近藤牧場/近藤乳業(株)
神奈川県藤沢市川名2-6-10
山村硝子製・正200cc側面陽刻
200cc移行後〜昭和50年代
近藤牛乳 (2)

(名)近藤牧場/近藤乳業(株)
神奈川県藤沢市川名2-6-10
山村硝子製・正180cc側面陽刻
昭和43年頃〜昭和50年代?

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業界の合理化圧力と、都市化が進む立地条件を乗り越え、たくましく県下に根付いた現役の中堅プラント。掲載は白牛乳200cc瓶装と、色物・加工乳向けの一合瓶。昭和60年頃に製造ラインを更改の結果、ビン詰め商品は全廃されたようだ。

神奈川は首都圏一帯の消費地に流通至便で、大手乳業・その傘下工場が多い。地元資本のメーカーで旧来の市乳ブランドを残す所は、タカナシ乳業、足柄乳業(共和酪農)、柳川乳業協同牛乳、そして近藤乳業さんの5社まで減った。

◆牧場経営の創始・市乳事業への参入

創業家は代々の牛飼いで、酪農従事の歴史は明治期に遡る。現在地・藤沢で牧場経営を始めたのは昭和9年。「近藤牛乳」の処理販売が本格的にスタートするのは四代目・近藤福次郎氏の頃、昭和37年になってから。出足は遅かった。

当時、ウシと飼料の高騰、原料乳価の低迷、機械化による人員余剰に接し、従来の搾乳事業が頓挫。窮状打開を求め、自社ミルクプラント建設に臨んだという。

まず県下の企業・工場ほか大口顧客に限って出荷も、正月に一斉休業、需要が絶えてしまう。そこで翌年は家庭宅配に着手。生産直売を謳い、他の販売店に比べ一合瓶で2〜3円安く売り出し大好評。得意先・商圏は急速に広がっていった。

◆「近藤牛乳」展開初期のひと悶着

500頭のウシを抱える大牧場が、原料乳の卸しを止め、自ら処理施設を運用して牛乳直売を手掛ける成り行きに、既存業者は猛反発。「協定価格を無視した抜け駆け的なやり方だ」「家庭宅配を中止せよ」と迫ったが、近藤氏は断固拒否。

すると、藤沢市内はもとより鎌倉、平塚、茅ヶ崎の至るところを、大手乳業各社の宣伝カーが走り回ってド派手な街宣を仕掛け、悪質なライバルは新聞の折り込みチラシを使い「某牛乳は不衛生」との中傷ビラをばら撒く、大乱戦が巻き起こった。

◆騒動の終わり・生乳100%の学乳も実現

「泥仕合ではなくサービス合戦を」「大企業の傍若無人・時代錯誤的行動だ」地域住民や酪農家は近藤を強く支持。世論は沸騰、新聞に記事が載るほどだった。やがて既存販売店は一斉に対抗値下げへ踏み切り、騒動は1〜2ヶ月で終息を見る。

かつては大量・強制的な脱脂粉乳の輸入が国内の生乳価格を押し下げ、酪農家と消費者を「まぜもの牛乳」が苦しめた、時代の側面もあった。近藤乳業の生産する「本物の牛乳」は間もなく学校給食にも採用され、大いに喜ばれたようだ。

― 関連情報 ―
近藤乳業の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 同・紙栓 (牛乳キャップとは)
同・紙パック製品 (愛しの牛乳パック) / 近藤3.5牛乳 200mlパック (牛乳トラベラー)


創業> 明治初期
昭02> 近藤牛乳店・近藤周太郎/神奈川県鎌倉郡中和田村和泉
           ※この頃すでに搾乳販売を行っているが、戦時に中断、再開が昭和37年となったらしい
昭09> 近藤牧場/同上 ※同年、藤沢市にも牧場を新設
設立> 昭和37年、合名会社近藤牧場(牧場経営)および
          近藤乳業株式会社(工場経営)として、同時に市乳事業を開始
昭39〜44> (資)近藤牧場/神奈川県藤沢市川名383
昭46〜53> 近藤牧場(合)/神奈川県藤沢市川名2-6-10
昭56〜平13> 近藤乳業(株)/同上
電話帳掲載> 同上
公式サイト> http://www.kondou-milk.co.jp/

処理業者名と所在地は、[神奈川県商工手引]・牛乳新聞社「大日本牛乳史」・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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