白バラ印を引っ提げ、明治乳業(鳥取工場)と死闘を演じ、ついに県下単一の酪農協・唯一の乳業工場という、全国にも稀有な統合体制を確立した専門農協さん。近畿での販売を担う伯耆酪農商事とともに、西日本一帯へ広範な商圏を有する。
昭和40年代に洛北生協(現・京都生協)と連携しコープ牛乳を産直展開。宅配事業への本格参入は昭和53年のことだが、今や販売店約500・顧客約30万軒。平成期には大山まきばみるくの里がオープン、観光牧場の運営も始まった。
・産直COOP牛乳ができるまで (鳥取県生活協同組合)
・大山乳業農業協同組合-最高の牛乳を求めて
(くらしと協同の研究所)
◆和牛・肉牛が君臨した大山
古くは鳥取藩による畜産奨励を皮切りに、大山(だいせん)山麓の和牛飼養は200年以上の歴史を持つ。農耕使役・厩肥の活用はもちろん、近現代は肉用牛の品種改良が進み、因伯牛(いんぱくうし)の産地として知られるようになった。
いっぽう「牛飼いと言えば和牛」の地域性が乳牛導入を妨げ、酪農の萌芽は遅い。状況を大きく変えたのは県外資本の進出で、八橋町(のち東伯町)に日本農産加工研究所が、大山町に明治乳業・鳥取工場が相次いで乗り込んだ、昭和14年のことである。
◆乳牛登場、お蚕さま弱体化に乗じる
日本農産加工研究所は大阪の食品会社。乳酸菌飲料の需要拡大に着眼し、近畿一円への製造販売を計画。原料乳を確保するため八橋町に拠点を置き、将来有望な副業・日々の現金収入を謳って乳牛飼育の普及活動を始める。
「和牛にあらずんば牛にあらず」の雰囲気が支配していた当時、乳牛などは得体の知れないイロモノ扱いで、当初の出足は鈍かった。しかし養蚕業が衰退し桑畑に遊休地が生じると、それを埋めるような形で徐々に参入する者が増えていく。
間もなく、研究所の勧めで乳牛を飼い始めた農家20名ほどが、生乳出荷団体として八橋酪農組合を結成。これが当地における酪農家集団誕生の瞬間だった。
◆研究所へ反旗を翻す乳牛さん
やがて日本は戦禍に呑まれ、末期は農村でありながら食糧不足の苦境に陥る。八橋酪農組合は地元のために一肌脱ごうと、送乳契約を結んだ研究所には全く出荷せず、幼児のいる家庭や旧知の牛乳屋にジャブジャブ横流し、もちろん研究所は大激怒。
両者の関係が急速に悪化したところへ、虎視眈々と集乳エリア拡大を目論んでいた明治乳業・鳥取工場が現れ、酪農家の切り崩し工作を展開。高乳価・技術支援・飼料配給を提示する。組合も対抗上、明治に鞍替えの方針を採った。
日本農産加工研究所は集乳がほとんど不可能になり、自ら育んだ酪農の胎動を横目に眺めながら乳製品部門を廃止。鳥取の地から撤退せざるを得なかった。
◆乳牛、資本主義の恐ろしさを知る
こうして大手傘下に入った組合だが、蜜月関係はすぐに潰える。競合メーカーを追いやった明治乳業はあっという間に各種の優遇措置を廃止、獣医の斡旋もストップ、あげく乳価は元に戻され、事が済んでみれば研究所時代の処遇と同じようなもの。
「結局、農民は利用されるばかりの立場なのか」組合員は悲嘆に暮れ、「中間業者を排し、生産・加工・販売の一貫体制を目指すしかない」と強く思い知った。
◆明治との決別、白バラの種蒔き
昭和21年、八橋酪農組合を母体に、伯耆(ほうき)酪農組合を旗揚げすると、当地の酪農家は明治乳業への送乳を停止。ついに独自路線へ踏み出した。
まずは山から木を切り出し、自力でミルクプラントを建造。また、処理・販売ノウハウを吸収すべく地元の市乳業者をメンバーに迎え入れ、中古の滅菌機やボイラーも確保した。
戦後ただちに自家処理を目指した決断の早さは、白バラに至る大きな布石となった。食糧難に喘ぐ時代、組合の製品は飛ぶように売れる。大企業の本格的な伸張・系列化の機先を制するタイミングで、これより遅ければどうなっていたか分からない。
◆衝撃の「白バラコーヒー」草創期
西日本エリアではお馴染みの「白バラコーヒー」。特に中国・関西圏では、商品入れ替えの激しいコンビニにも常置の棚を確保。ミルクの風味豊かな優しい味で、愛飲者が多い。
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しかし戦後の草創期、まだ爽やかな白バラでなかった頃は、なにしろ物がない時代。初代組合長・桑本太喜蔵氏の回想によると…
色が白ければ、それだけで立派に牛乳として通った。
コーヒー牛乳といっても、脱脂牛乳にズルチンやサッカリンを放り込んで、煎った大豆で色付けしただけのものだった。 |
衝撃の種明かし!無論これは昭和20年代初期のエピソード、遥か昔のひとコマ。大豆を使ったコーヒーは代用品の定番でもある。 |
また当時、砂糖は統制下で流通量に乏しく値が張った。添加物の毒性指摘も後の話で、多くの食品メーカーが人工甘味料に依存。程なく砂糖100%での甘味調製が主流となるや、全糖標示を各社が採用、品質優良の意味で盛んに喧伝されていく。
◆白バラの由来・咲き始め
ちょっとお洒落なシンボルマーク “白バラ・White Rose”は、「正直・純粋」「私はあなたに相応しい」の花言葉を持つ。採用から半世紀を超える伝統の商標だ。
昭和20年代中頃、組合では、牛乳や乳製品を販売していくための商標を考えていました。検討する中で、当時から取引のあった大阪の矢頃商店(現・伯耆酪農商事)保有の「白バラ印」が、マ−ク・ネ−ミングともに「白い牛乳のイメ−ジにぴったり!」ということから共同使用することに。昭和52年には大山乳業農協が、正式に商標を登録しています。(⇒白バラ広場-教えてカウィー) |
神奈川のタカナシ乳業や広島の岸本乳業も、トレードマークにバラの花を用いる。双方ともに堂々の現役ブランド。バラには商売繁盛のご利益があるのかも知れない。
◆業容の拡大、同系団体の糾合
伯耆酪農の好調な滑り出しを見て、加入希望が増加。明治乳業・鳥取工場に生乳出荷していた酪農家の一部も、取引条件の良い白バラへ合流し始める。足場固め成り昭和26年、満を持して伯耆酪農農業協同組合に組織を改めた。
作るからには売らねばならず、販路開拓に傾注。工場を拡張整備しながら岡山や広島、山口、九州地方に営業拠点を設ける。京阪神エリアには在阪の問屋・矢頃商店に出資して商事会社を設立、大消費地にシェア獲得の大成果を挙げた。
昭和30年、米子市牛乳生産販売農協(米子市錦町)、翌年に中央酪農農協(倉吉市越中町)(⇒関連:鴨川酪農)を吸収合併。農民連帯の輪も着実に広がっていく。
◆明治乳業との最終決戦
県下酪農の主導権を握るのは誰か?昭和40年、その命運を左右する指定生乳取引団体のポジションを巡り、伯耆酪農農協は明治乳業との最終決戦に臨んだ。
加工原料乳生産補給金暫定措置法(不足払法)に基づくこの指定は、各都道府県で最大規模の組織を定め、生乳の一元集荷を実現し、国の助成・損金補填に浴する特等席。椅子はひとつ、鳥取では白バラと明治の二大勢力が争うことになる。
遡って昭和30年、同種の特等席だった大山エリアの酪農振興法・集約酪農地域指定では、明治の鳥取工場が中心、伯耆酪農は調整工場の格付けに敗れていた。
◆3組合の合併・永年の抗争に終止符
大資本の味方ばかりする中央政策に、酪農民はリベンジを誓う。ところがこの時期、白バラはもちろん、明治側も県下処理量の過半には達しておらず、規模に有意な差がなかった。このままでは「やっぱり明治で」となりかねない。
両者は諸派の取り込みを企て根回し・暗闘を繰り広げ…昭和41年、伯耆酪農は、鳥取県東部酪農農協および美保酪農農協と合併、現在の大山乳業農業協同組合を樹立。県下単一の酪農協として無二の地位を築き、指定団体の座を射止めた。
◆敗退した明治乳業も頑張る
県全体を覆う広域組合の誕生を受け、明治は業務縮小を余儀なくされる。昭和43年、鳥取工場での生産を中止して集乳所に転換、同50年には完全閉鎖した。
しかし昭和42年、明治乳業へ生乳出荷を継続の任意組合と、米子市・米子乳業(有)、同じく(株)南部酪農、境港市の村上食品が合弁、東福原に山陰牛乳(株)を立ち上げ。間もなく明治もこれに加わり、山陰明治牛乳(株)が発足。
白バラの勝利は明治のみならず、県下の中小メーカーにとっても脅威であり、抵抗勢力が団結したのだろう。新会社は山陰エリア唯一の明治系列工場として操業、平成12年度の乳業施設再編合理化による閉鎖まで、粘り強く当地に生産を続けた。
◆掲載瓶・現行のビン製品について
掲載は4世代。昭和30年代流通の細口王冠瓶と、40年代の一合瓶2種、50年代の200cc瓶だ。往時は五合瓶(900cc)がメイン、テトラパック早期導入で紙パックの比率が高め、未回収の空白もある。現地工場の古瓶展示も完揃いではないようだ。
・青空教室〜大山乳業農業協同組合編 (くらよし散歩道)
・大山乳業の工場見学に行って来ました (鳥取県倉吉市の観光案内広場)
・琴浦町-白バラの聖地巡礼 (鳥取マガジン)
平成14〜15年度の再編合理化を通じ、県下最後の地場乳業・日進乳業(株)と(有)岩美牛乳を併合。16年に新工場を落成、プラ栓・軽量新瓶に移行している。
― 関連情報 ―
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