昭和20年代末より約20年間、市域に商われた往年のローカル銘柄。原点は大正9年、東京銀座に軒を構えた洋菓子原料・乳製品の問屋さん。フジハト印を掲げ、大阪に営業所、静岡と香川に工場をつくり、特に戦前の酪業には製販両面で貢献した。
法人商号は岩瀬博美商店から岩瀬産業貿易(株)と遷移、戦後独立した大阪の販社(現・イワセ・エスタ)を除き、既に廃業・解散している。
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画像上:岩瀬産業貿易の販促用手拭い(昭和40年代初期?)…フジハト印を中心に据えた、愉しい図案の大判手拭い。東京本社と高松工場/販社の連名。ミルクとバター、製菓原料をアピールしている。 |
◆香川から上京・銀座に乳製品問屋を興す
創業者の岩瀬茂太郎氏は香川県木田郡の出身。近郊で約7年間、菓子・食料商の経験を積み、明治43年に上京。さらなる下積みを経て大正9年、京橋区木挽町(現・中央区銀座)に洋菓子原料・乳製品の卸し問屋を開業した。
当時日本は酪農黎明期、多くを輸入に頼らざるを得ない。岩瀬氏は国産乳製品の充実を図り、将来有望な全国の産地から、時に採算度外視で仕入れを行った。
伊豆大島(⇒関連:秋広牛乳)のバター事業投資、北海道・樺太(⇒関連:最北端の牛乳)、千葉(東洋煉乳/房南煉乳)、静岡(志太榛原畜産販購利組合/志太煉乳)(⇒関連:中央牛乳)など、往時の取引先は実に幅広い。
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画像上:岩瀬博美商店の会社広告(昭和8年)…食糧、油脂、エコナ、フジハト印バター・ミルク発売元と。取り扱い詳細は製菓原料一般、洋酒、食糧品、乾果実類、乳製品各種。この頃はまだ自社の加工拠点はなく、フジハト印製品も委託生産。 |
◆静岡県に直営工場の開設
問屋業のかたわら、ついに直営工場の経営に乗り出す。昭和12年、静岡県当局と磐田郡畜産組合の工場誘致を受けて、磐田郡中泉町に岩瀬練乳工場を開設。全脂/脱脂練乳およびバター、生クリームの製造に着手した。
また、同地に乳牛の育成・繁殖を行う岩瀬畜産(株)を置いて牧場運営にあたり、ここにも加工場を併設のうえ、製菓および市乳事業を手掛けたらしい。
先に挙げた「岩瀬練乳工場」は、戦時統制で昭和15年に明治製菓(明治乳業)が買収(同・磐田工場、昭和50〜60年代に閉鎖)。いっぽう岩瀬畜産は戦時に一旦休業?も戦後再興、昭和30年代後期までプラント稼働の記録が残る。
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画像上:岩瀬博美商店の会社広告(昭和14年)…静岡に工場を構えた2年後の広告。練乳、バター、カゼイン、傍系の岩瀬畜産では菓子類の製造に着手している。輸入物としてはレーズン、チョコレート、香料、ココア、食用色素などが並ぶ。 |
◆高松工場の開設、フジハト牛乳の発売
いっぽう郷里の香川にも牛飼いが増えていた。ところが生乳の買い手に乏しく、新たな製酪工場を望む声が高まり、地元出身かつ棋界の成功者・岩瀬氏に白羽の矢が立つ。
戦時の資材調達は難航も、県当局が全面的にバックアップ。昭和17年、高松市松島町に岩瀬煉乳・高松工場を落成。乳業資本の県下初進出、待望の基幹プラント。酪農組合・牛乳販売組合9団体が出荷に応じ、鋭意操業を開始した。
当初製造は加工品(バター・練乳)のみ。市乳直売(フジハト牛乳)は戦後、昭和20年代後期の参入。果実飲料(清涼飲料水)もラインナップした。昭和40年代末に市乳処理工場としての名簿掲載は途絶え、間もなく閉鎖と見られる。
◆商標「フジハト印」の由来は?
香川県坂出市出身の詩人・池井昌樹氏は、著書で幼少時を回想し、日曜日にだけ飲ませて貰えた牛乳の、その美味しさを述懐するくだりで、フジハト牛乳の名前を挙げる。氏は昭和28年生まれ、子供時代がフジハト牛乳の展開期と合致する。
水滴を弾いた分厚い壜の広口から直に飲むその液体は驚くばかり濃く甘く、陶然となった。一滴残らず搾るように飲み干して、すっかり味の無くなるまで広口を綺麗に舐ぶった。<中略>蓋には鳩の絵がややぶれ気味に刷られていた。フジハト牛乳という地元の小さな製菓店だった。フジとは窓の遠くに霞んでいる姿美しい飯野山―讃岐富士のことだった。<中略>父は死んだし、あの家も、フジハト牛乳も疾っくのむかしに絶えてしまったが。―池井昌樹[冠雪富士](平成26年・思潮社)「幼心」より |
・池井昌樹『冠雪富士』(6) (詩はどこにあるか-谷内修三の読書日記)
製造元を「地元の小さな製菓店」と呼ぶのが興味深い。岩瀬煉乳は周辺に店舗を設け、自家原料で作った洋菓子の小売りをしたのだろうか。「蓋に鳩の絵が刷られていた」のは確か。瓶と同じフジハト印は、牛乳キャップにも載っていた。
そして銘の由緒を讃岐富士(飯野山・讃岐七富士のひとつ)と見立てるが…フジハト印の策定は、静岡や香川に岩瀬の工場ができた時期より早く、上掲広告にある通り、富士山と鳩を重ねたトレドマークは、昭和初期の段階で既に使われていた。
讃岐七富士をモチーフとするなら、岩瀬茂太郎氏の生地〜少年時代を過ごしたエリアの三木富士(白山)や御厩富士(六ツ目山)のほうが有望そうだが、正確な由来は不明である。
◆大阪営業所は岩瀬商事〜イワセ・ エスタに進展
話は遡って昭和初期。茂太郎氏は岩瀬煉乳・大阪営業所(浪速区木津川)を開き、卸売り販路を拡大。昭和30年に至っては、岩瀬米次郎氏・正雄氏が同・商事部門の全業務を継承して独立、別系法人の岩瀬商事(株)(現・イワセ・エスタ)に転換。
今や全国に支店・工場・倉庫網を擁する、総合食品商社さん。立ち上げ間もない頃の岩瀬商事の古写真(Googleフォト・土永甚良氏)には、社用トラックにフジハト印が見える。母体の高松工場/岩瀬畜産(静岡)の製品仕入れは続いていた。
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画像上:「菓子食品の原料資材商社」岩瀬商事(株)の営業案内(取り扱いの一覧)(昭和50年)…協力工場のOEM「イワセ印(I&C印)」ブランドはあるが、かつて扱ったハト印/フジハト印は無くなっている。 |
ただ、昭和50年末時点の「営業あんない<取扱品目>」に、フジハト銘は既にない。取り次ぎは明治、森永、名糖、よつば、雪印、らくれん、カルピスといった大手が並ぶ。
◆東京銀座に残るかつての本社ビル
上掲広告に写真が出ている、昭和4年竣工と思しき岩瀬博美商店(岩瀬産業貿易)ビルは、銀座に健在。各種事業は撤退して久しいものの、軒先やガラス戸に往年の商号が刻まれ、重厚な存在感は抜群。近代建築・路上観察の愛好家諸氏に多数捕捉される。
・鈴木ビル、岩瀬博美商店/銀座1丁目
(ぼくの近代建築コレクション)
・銀座〜京橋散策
II 岩瀬博美商店 (アクトデザイン凛太郎のブログ)
・銀座
鈴木ビル(山中節治設計)その4
(関根要太郎研究室@はこだて)
・岩瀬博美商店 (Roc写真箱)
/ 岩瀬博美商店
(一応、カンパネルラ)
・東京・遠く近きを読む(20)銀座の子(つづき)
(東京 Downtown Street 1980's)
外観に過去商標フジハト印の掲示は無く、傍目にはここが業務用食材の問屋さんだったとは想像しにくい。当ビル以外にも近隣に複数の物件(「岩瀬ビル」など)を所有するらしく、創業家直轄の不動産管理業は引き続き営まれているのだろう。
― 参考情報 ―
昭和20年代〜30年代初頭の香川の農業と農村
(香川大学学術情報リポジトリ)