大庭牛乳大庭牛乳

(記事下段)

大庭牛乳

大庭牧場⇒(株)大庭牛乳
福岡県嘉穂郡筑穂町内野454-1
広島硝子工業製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期

TwitterFacebookこの牛乳屋さんの記事を共有

継承5代・約140年の歴史を刻んだ、県央のローカルメーカー。初代・大庭久吉氏が、村会議員務めの傍ら牛乳店を開業。以来長きに渡る自家処理・直売も、契約酪農家の転業、乳機の老朽化など諸問題に直面。平成29年に廃業を決している。

後年の商い銘柄は「村の牛乳屋さん」、郡下一円に展開。ただし紙キャップには「大庭牛乳」の銘が最後まで残っていた。明治初期から連綿と続いた家業の様子は、かつての公式サイトに活写されており、その歴史が良く分かる。(⇒伝統の証/村の牛乳屋さん)

掲載は昭和30年代に流通の一本。車輪のような屋号は「大」の字を8つ並べて「おおば」と読ませる言葉遊び。昔のトレードマーク作りの定番で、滋賀の野崎牧場さんや奈良の矢尾牛乳さんほか、類似の発想に基づく図案は多々見られる。

◆福岡最古のミルクプラント

大庭久吉氏の乳牛飼育・搾乳販売の創始は明治5年。全国的にも早い先駆的な取り組みで、県下に残るメーカーでは最古の老舗だった。幕政期より内野宿として栄えた宿場町に、産業振興と相応の消費を見込んだ着手だろう。

周辺には明治中期〜大正期に炭鉱が開かれ、地元は大賑わい(⇒関連:日鉄ミルク)。大庭牛乳さんも戦後の最盛期は第二・第三牧場を増設、乳牛50頭に達した。

時は流れて郡域に酪農が定着。平成初年に牛飼い・自家搾乳をやめ、原料は仕入れ調達とし、ミルクプラント経営に特化。同じころ(株)大庭牛乳を設立、法人化されている。

◆筑穂町の酪農黎明期

戦前の嘉穂郡は酪農(農家での飼養)を含め、畜産全般が低調だった。本格発展は昭和25年以降。米麦一辺倒の脱却と現金収入アップを目指し、筑穂町湯之浦の集落が乳牛を導入、酪農組合を結成したことに始まる。

有畜農業の試みは衆目を集め、やがて町全体に波及。往時の主要な生乳出荷先は嘉穂酪農協(飯塚ミルク)の処理場。この拠点は昭和34年、西日本酪農協連(ニシラク牛乳)が買収し、同・筑豊工場に転換。42年頃まで操業していた。

― 参考情報 ―
大庭牧場の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
大庭乳業の紙栓 (牛乳キャップとは) / 同・紙パック製品など (愛しの牛乳パック)
大庭牛乳 (ちくほの人とお店-筑穂庁舎ふれあいCafe)


創業> 明治5年
昭03〜09> 大庭午吉/福岡県嘉穂郡内野村
昭30> 内野村は周辺2村と合併し、筑穂町となる
昭31> 大庭悟/福岡県嘉穂郡筑穂町内野454-1
昭34〜60> 大庭牛乳処理場/同上
昭61〜平04> 大庭牛乳/同上 ※平成初年、(株)大庭牛乳を設立
平13> (株)大庭牛乳/同上
平18> 筑穂町は市町合併により飯塚市となる
電話帳掲載> 同上/福岡県飯塚市内野451-7 ※平成24年時点
廃業> 平成29年
公式サイト> http://www.ohbagyunyu.co.jp/ ※平成20年頃には運営を中止されている

処理業者名と所在地は、[大日本商工録]・牛乳新聞社「大日本牛乳史」・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



漂流乳業