大正期の創業以来、市域を中心に50年ほど商われたローカル銘柄。一帯では松原牛乳や井上牛乳と同等規模の中堅メーカーさんであり、家庭宅配網を広範に巡らせていた。しかし倒産と新会社の発足を経て、昭和47年前後には完全廃業に至っている。
掲載は往年流通の一本。野球のボールみたいなトレードマークは、小畑の「小」の字を丸っこく膨らませた造形だろう。かつては比較的著名なブランドだったと思うが、現役時代の様子を詳しく伝える情報は、あまり多くない。
◆大阪・京都・三重に牧場を拓いた小畑辰巳氏
創業初代は三重出身の小畑辰巳氏。明治44年・16歳のとき、滋賀の「人王堂」(林幾太郎氏の牧場⇒関連:キムラ牛乳)に牧童として入り、牛飼いの道を歩み始め、苦労の中にあって牧畜・乳業の世界に大きな手応えを得る。
氏は大志を抱いて大正5年に北海道へ渡ると、のち雪印乳業の礎となった宇都宮牧場に勤務。翌6年、踵を返して大阪に向かい、自らの牧場を開設も半年で頓挫。次は旭川に澱粉工場を構え、短期間でこれも行き詰まるが、意欲的に事業での立身を図った。
大正8年、ついに本項乳業の所在である京都太秦に牧場を作り、牛乳販売に着手。さらに故郷の三重県にも第2牧場を拓き、戦前すでに計100頭の乳牛を飼うまでになった。京都畜産組合といった、業界団体の要職にも就かれている。
◆戦時の中絶と戦後再興、会社法人化
戦時は各社の例に漏れず、物資欠乏や企業統合の波に晒され、事業を中断・放棄。再開は昭和27年、京都太秦のミルクプラント稼働で「小畑牛乳」が復活した。たぶん牧場・牧舎の運営は断念(縮小)し、原料の大半は外部調達の業態に変わったはずだ。
昭和32年、販社である小畑商事(株)を設立。伏見、松原、花園、京極の各エリアにも支店を設けて拡売に務め、同34年に小畑乳業(株)を興し、処理部門も法人化が成った。
◆経営不振により倒産、再建、廃業まで
ところが競争激化の折、昭和40年末から資金繰りが悪化。明けて41年の初頭より乳代の支払いが滞り、小畑乳業に生乳出荷していた滋賀県/京都府経済連、京都搾乳畜産農協、城南酪農協(綴喜郡田辺町)などが、順次取引を見合わせ、万事休す。
負債額は1億8千万円に及び、小畑乳業は会社更生法の適用を申請、(株)新小畑乳業(代表・今村義人氏)が発足の仕儀となり、鋭意再建に臨むも…やはり状況は困難だったらしい。この間に触れる資料ほぼ無く、昭和47年前後には廃業を決したと見られる。
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