大正元年の発足以来、町域とその周辺におよそ60年ほど商われた、県央・赤城山麓のローカル銘柄。昭和43年に自家処理より撤退、雪印牛乳の販売店に転じて独自ブランドは消滅も、祖業の牧場は拡大・継続。平成期まで?牛飼いの営みは続いていたようだ。
しかし現在は牧場・販売店を閉じて既に久しい。跡地には自然薯畑が拓かれているほか、5kmほど離れた別の場所ではブルーベリー狩りのできる観光農園を手掛けられている。
・自然薯農園「土の香(とのか)」
・ブルーベリー農園「Calberry(カルベリー)」
◆大正時代、3者の協業で大胡牛乳を立ち上げ
創業初代は石井重太郎氏。乳牛飼育を始めたのは明治30年で、繁殖や堆肥生産のほか、前橋市内の搾乳業者(牛乳屋)向けに、泌乳期の乳牛を貸し出す商いをしていた。
かつて農村部で良く見られた草創期酪農の一形態で、町には同様の飼育者が10人ばかりいたらしい。大正元年に至り、「我々も処理場を作って直接売りさばこう」と石井氏が呼び掛けたが、賛同者は僅か一名、高橋喜作という人だけだった。
石井氏はそれでも事業化を諦めず、隣村で小さな牛乳屋を開いていた古河氏を引き入れ、3者協業による大胡牛乳店を発起、ついに直売へ乗り出す。ただこの協業はあまり上手く行かず大正12年に解消、以降は石井氏の単独経営に移行した。
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画像上:大胡牛乳店・石井牧場の外観(昭和12年)…重太郎氏の二男、一治氏が牧場を受け継いで間もない頃の様子。牛舎と放牧場が見える。20頭ほどの規模感だろうか。[大日本職業明細図]より。 |
◆酪農専業へ回帰、掲載びん、養鯉業について
長く当地に親しまれたものの、現役時代の様子を伝える情報はあまり多くない。業界趨勢に応じ、昭和43年には自社ブランドを廃止、雪印の請け売りに転換。いっぽう牛舎は新築を図って生乳増産、赤城酪連を通じて明治系の関東製酪(あやめ印)に出荷された。
掲載瓶は往年のオリジナル。背面の赤ちゃんイラストは、全国飲用牛乳協会(その傘下にあった群馬県の団体?)が用いた共通ビン(1)と同じ絵のようだ。
なお、石井重太郎氏(初代〜襲名した二代目)は、乳業よりもむしろ、養鯉業の成功者として知られる。合名会社「鯉重」は県下指折りの規模で盛業を極め、今なお同名の株式会社が前橋市上大屋町にあり、家業を繋いでいる。