市当局の全面バックアップを受けて工場開設以来、およそ50年の歴史を刻む県央の農系ローカル銘柄。現在は紙パック製品のみ取り扱い、掲載のような印刷瓶は無くなって久しい。代表銘は「千葉酪(天然)牛乳」「ちばらく牛乳」「千葉酪農牛乳」と、時代により異なる。
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画像上:下志津原酪農農協の牛乳処理工場(昭和44年)…落成間もない頃の外観。工場及び農協本所は、平成5年頃に稲毛区長沼原町から若葉区富田町に移転している。 |
◆陸軍演習場の跡地開拓で始まった酪農
戦後、下志津原にあった広大な陸軍演習場が開拓地として解放されると、周辺に駐屯していた元軍人や戦災者、引揚者の家族を含む750戸が、鋭意入植。当局の支援を受けながら、昭和23年頃より本格的に当地で乳牛飼育を始めた。
一帯には8つの開拓農協が作られていたものの、生乳は各個人がメーカーと直接取引しており、価格交渉が難しく、乳代不払いも頻発。搾乳量が増えてきた26年以降、後続の酪農家は低乳価を強いられるなど、不安定かつ不平等な状況が顕わとなった。
◆雪印と手を組み下志津原酪農農協が発足
一致団結して生乳出荷すべきでは、の機運が俄かに高じる。県開拓農協連合会が雪印乳業の黒澤酉蔵氏を招いた講演会でも組酪農織の必要性を説かれ、その方針は定まった。
黒澤氏は雪印の東京進出を控え、原料乳を確保したかった。都下の第一牛乳(⇒関連:保証牛乳グループ)と合弁会社を設立するので、まずそこにまとめて送乳してみてはどうだろうと、下志津原の酪農家に対し、組合の結成を強く促す。
昭和28年、有志65名・乳牛80頭の陣容で下志津原酪農農協が発足。以降、賛同者の多数合流を得て、年々発展を遂げる。第一牛乳を皮切りに、板橋の東京工場、松戸の千葉工場ほか、のち25年間に渡って雪印への出荷が続いた(昭和52年に決別、全酪連へ振替)。
◆千葉市の後援を受け市乳処理事業へ進出
昭和30年代、十円牛乳ブームのさなか、幾度かは自家処理・生産直売の夢も語られた。しかしミルクプラントの立ち上げ・営業に臨む余力は到底なく、具現化せずに終わる。
潮目が変わったのは昭和42年のこと。当時の千葉市長・宮内三朗氏の肝いりで、地場組合の製造による新鮮で安価な牛乳の供給が、市民の福利厚生・酪農振興策として急浮上。
下志津原酪農農協で実施の意思さえあれば、かなりの補助金も出る。組合内部で積極論と慎重論が交錯も、最終的には市乳処理事業への進出を決した。
◆千葉酪牛乳の発売と既存業者の反対運動
ついに昭和44年、組合の処理施設が完成。ブランドは「千葉酪天然牛乳」、市長の命名だった。初手は学乳と団地エリアの集団飲用からスタート。千葉北部酪農農協(八千代天然牛乳)の成功をお手本にしていたらしく、事業の姿が似通っている。
無事に稼働へ漕ぎつけた一方で、行政の全面バックアップによる農系工場は、既存民間業者の圧迫に繋がると、計画段階から相当な反発も喰っていた。
一部メーカーおよび市内100店余りの販売店は、粘り強く反対運動を展開。協議のすえ、組合側の営業権が制限されるなど、半年間は自由な商いができなかったという。
◆一般市場への浸透・工場の増設と瓶装の廃止
ひと悶着を乗り越えた千葉酪牛乳はその後、学校・生協・役所・病院ほか集団飲用の需要を取り込み、着実に販路を確立。また、市内最大のスーパーチェーン「ヤックス」への卸しが始まると、一般市場でも予想外の伸びを示し、事前計画を凌ぐ急成長を果たした。
およそ8年の操業で製造能力に不足を来たしたため、昭和52年には工場を増設。同時に組合の呼称を千葉酪農農協と改める。同56年、静岡県柑橘農協連合会と提携、ジュース類の強化を図り、瓶詰め設備を撤去。空きスペースは果汁系の充填ラインとなった。
― 関連情報 ―
千葉酪牛乳の紙栓
(牛乳キャップとは)
ちばらく3.7牛乳
(ものログ) / 千葉酪農3.6牛乳 (jiitaji@フォト蔵)
市史編さんだより 第2号
(四街道市公式ホームページ)
千葉酪農協直売所
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