長久牛乳長久牛乳
長久乳業の製品集合写真(平成12年年頃)
画像上:長久乳業の製品集合写真(平成12年頃)…クラシックなデザインの紙パックが並ぶ。既にビン詰めは無い。島根県牛乳普及協会サイトの過去掲載・会社紹介より。
長久牛乳

長久酪農業協同組合⇒長久乳業(有)
島根県大田市長久町長久イ601-1
東洋ガラス製・180cc側面陽刻
昭和40年代中期〜50年代

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市域を中心に80年ほど商われた、県央の地場ミルクプラント。個人創業の牛乳屋さんに端を発し、戦後は酪農専門農協の樹立を経て、後年は会社法人に転換。

学校給食・スーパー(さんのあたけはら)などでお馴染みだったが、平成18年に廃業、銘柄は消滅。その後は島根中酪の営業所として稼働も、数年で閉鎖されている。草創期に内部対立で分裂したメンバーは、グリコ協乳・大田工場の誘致で一時代を築いた。

◆中田牛乳店〜長久酪農組合の成立

振り出しは大正15年、大田市成立前の旧・安濃郡長久村において、中田亮一氏が乳牛飼育と搾乳販売を始めたことによる。個人経営の時代を経て戦後の昭和22年、周辺一帯に酪農家が増えてくると、この中田牛乳店を中核とした長久酪農組合の結成に至った。

しかし組合長である中田氏は、あくまで牛乳屋さん。季節変動する飲用需要に応じ生産調整に終始するスタイルは、酪農を基幹産業化したい農家側の将来展望と、大きく異なった。

◆石東酪農協の分離独立と長久酪農協の発起

両者の溝は埋めがたく、昭和24年、とうとう組合員11名のうち8名が離脱、石東酪農協を興して袂を分かつ。この新組合は松江乳業明治乳業(鳥取工場)へ生乳出荷の傍ら、処理工場を設けて直売にも乗り出し、31年には企業誘致でグリコ山陰協同乳業を打ち立てた。

造反により大打撃を受けた中田氏は、それでも石東酪農協には合流せず、これまで培った営業基盤・実績をテコに組織再生を図る。昭和25年、旧組合を母体に長久酪農業協同組合を発足させ、メンバー補充と販路拡大に邁進。当地に確固たる存在感を示した。

◆掲載瓶と晩年のラインナップなどについて

掲載は昭和40〜50年代に流通の一合詰め六角瓶。白牛乳向けではなく、色物専用の容器だったかも知れない。双葉のロゴマークはちょっと珍しい構えだが、由縁は不詳。

平成に入って間もなく長久乳業(有)を設立、同社が市乳事業を引き継いだ。その際おそらく組合員の減少などから、酪農協は解散したと見られる。前後して瓶装ラインを廃止、以降は紙パックのみ展開。普通牛乳・低脂肪・コーヒー・フルーツの4種が晩年まで残っていた。

― 関連情報 ―
さよなら「長久牛乳」 (どがしとる〜!?しまねは大田市から)
長久酪農協の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・景品コップ (牛乳グラス☆コレクション) / 同・宅配受け箱 (後藤健太郎のブログ)
箱008 長久乳業(島根県大田市) (牛乳トラベラー)
長久乳業有限会社 (島根県牛乳普及協会) ※IAキャッシュ


大15> 中田亮一氏が乳牛飼育と搾乳販売を始める
昭22> 中田氏を組合長として長久酪農組合が発足
昭25> 酪農組合を母体に長久酪農業協同組合が発足

昭31> 中田亮一/島根県大田市長久町長久イ601-1
昭34〜48> 長久酪農協/同上
昭50〜平01> 同上/島根県大田市長久町長久イ603
平04〜13> 長久乳業(有)/島根県大田市長久町長久イ601-1
電話帳掲載> 島根中酪大田営業所/同上 ※平成19年時点
自家処理撤退・独自銘柄廃止> 平成18年
公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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