鹿野牛乳鹿野牛乳

(記事下段)

鹿野牛乳

(有)鹿野乳業
山形県酒田市中央東町3-25
東洋ガラス製・正200cc側面陽刻
昭和60年代〜平成5年頃

鹿野牛乳鹿野牛乳
鹿野牛乳 (五合瓶)

(有)鹿野乳業
山形県酒田市中央東町3-25
大和硝子製・900cc側面陽刻
昭和50年代

庄内地方の畜産・酪農発展の立役者として名を残す、鹿野家由来のローカル銘柄。遡ること明治6年には始祖・鹿野兼次氏が、鶴岡と酒田に牛舎を設けて搾乳業に取り掛かっており、これは全国的にも極めて早い段階の仕掛かりだ。

郷土の先人・先覚138 《鹿野兼次》 (荘内日報社)

本項の鹿野乳業さんの始まりは、明治15年。鹿野家の養子・善作氏が、兼次氏のもとで酪農経営を学んで独立、酒田に新たな牧場を拓く。ご商売は軌道に乗り、平成19年に至るまでの約130年間、鹿野牛乳のブランドが代々受け継がれた。

〜幕末期〜
庄内藩の御風味方・加藤一昌氏が、藩主に滋養品として牛乳を奨める。これが山形県における初めての乳利用。加藤氏の二男、鹿野家の養子となった鹿野兼次氏は東京に出て、蘭医・松本良順氏の松本牛舎(病人向けの牛乳を製造)で飼養・搾乳技術を学ぶ。

〜明治初期〜
明治6年、鹿野兼次氏が東京から鶴岡に帰郷。旧藩主の命を受け馬場町に牛舎をつくり、乳牛飼育・搾乳を手掛ける。また酒田町本町にも父・一昌とともに牛乳と牛肉の店を開いた。同9年に兼次氏は畜産酪農の手腕を買われ、山形県畜産試験場の動物主任となる。

〜明治中期〜
明治14年、兼次氏は飽海郡山谷新田村山海(現・酒田市平田地区)に牧畜場を開設。この村の斎藤家から鹿野家の養子に出されていたのが鹿野善作氏で、幼少期より兼次氏のもとで畜産技術を習得し、同15年に独立。本項の鹿野牛乳(酒田町上寺町)を開業した。

〜明治後期〜
兼次氏は試験場を退官後、山谷新田村に拓いた牧畜場の附近?に移り住み、自ら金谷牧場と鹿野牛乳製造所を経営、一帯は鹿野山と称された。牛舎の傍らに茶室を備え悠々自適の暮らしと伝わる。のちにこの商売は斎藤家の人が引き継ぎ、昭和20年頃まで続いたという。

昭和9年の[全国乳業者名簿]に見える鹿野善治氏は、恐らく善作氏のご子息だろう。戦中〜戦後の一時期は同業者組合に移行、三代目・善雄氏が代表を務める。しかし組合は間もなく解消され、個人経営の鹿野牛乳店に復した。

◆鹿野牛乳の消滅と現況について

以来、田村牛乳さん、ゴトウ牛乳さんと共に、酒田市内に粘り強く残ったメーカーだが、ついに平成19年、自家処理より撤退し独自銘柄は消滅。庄内農協乳業(鶴岡市藤浪)の請け売りに転じるも、24年、同社の操業停止を機に、手仕舞いとなったらしい。

鹿野乳業の建物は解体済み。跡地は病院の駐車場に変わっている。数軒左隣には、今も「かのにくや」(鹿野肉屋)さんが営業中、これも鹿野家ご家業の名残か。かつて善作氏は牛乳販売の傍ら、同地で和牛の品種改良に取り組んでいた。

◆掲載瓶・五合瓶などについて

通い徳利のような寸胴型の五合(900cc)大瓶は、高さ約22センチ、底部直径約9センチ。往時の最大容量を誇る巨体が、保管場所を席巻する収集家泣かせの一本。ぼってりした造形には愛嬌があって隅に置けず、何とも困ったやつである。

本社、工場、支店・営業所の電話番号併記は良くあるパターンだが、牛乳部とアイスクリーム部、という列挙は珍しい。掲載の2本とは別に、鹿野さん方で利用と思しき「学校牛乳」専用瓶を、特集-学校給食専用瓶の項に掲載している。

― 関連情報 ―
鹿野乳業の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
鹿野乳業 / 庄内農協乳業 (乳業探訪記)
鹿野牛乳の木箱と看板 (零魂) / (有)鹿野乳業の情報 (ごった煮)


創業> 明治15年
昭09> 鹿野善治/山形県飽海郡酒田町寺町
          ※昭和8年に酒田町は市制施行し、酒田市となっている
昭31> 鹿野牛乳店・鹿野善雄/山形県酒田市寺町158
昭34〜36> 酒田乳業協同組合/同上
昭39> 鹿野牛乳店/同上
昭40> 同上/山形県酒田市寺町126
昭41〜44> 鹿野乳業/山形県酒田市中央東町3-25
昭46〜平13> (有)鹿野乳業/同上
電話帳掲載> 同上 ※当時
自家処理撤退・独自銘柄廃止> 平成19年
廃業> 平成24年頃
公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、牛乳新聞社「大日本牛乳史」・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成21年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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