岩尾牛乳岩尾牛乳

(記事下段)

岩尾牛乳

岩尾牧場
大分県日田市丸の内町9
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和40年代中期〜廃業まで

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大分県における酪農のパイオニア・岩尾伏次郎氏の発起に始まり、80年余の長きに渡って商われたローカル銘柄。明治初年、地元の孤児救済施設が県下に初めて入れたホルスタインが、創業のルーツになったとも言われる。

かつて伏次郎氏に師事した愛弟子は、自らの郷里に日田酪農協(日田牛乳)を旗揚げ。のち3組合の統合・九州乳業(みどり牛乳)の誕生に繋がっていく。いっぽう岩尾牧場さんは昭和50年代半ば廃業に至り、ブランドは消滅した。

◆乳牛飼養の発祥地・日田養育館

大分に初めてホルスタイン種が導入されたのは明治4年、全国的にも極めて早い取り組みだ。きっかけは往時の日田県令(県知事)・松方正義氏が、私財を投じ、また民間の寄付を募って興した棄児・孤児の救済施設、「養育館」にあった。

養育館は当時最高レベルの先進施設で、運用は困難を極めた。100人を超す乳幼児を抱えると、乳母の貰い乳や、搾乳量に乏しい和牛(役牛・肉用)を動員しても全く乳が足りない。

松方氏は懇意にしていた長崎の外人牧師に頼み、上海から乳牛を輸入。哺乳・人工栄養の自給体制を築く。しかし社会制度の変革や財政問題を受け、養育館は明治6年に閉鎖された。

◆岩尾牧場の誕生・養育館との接点

時代を下って明治中期、地元に育苗・農産物を商う「伏見屋」の岩尾伏次郎氏がいた。貧しい九州の農村のこと、栄養失調で命を失う子供が多い。氏はある種の使命感を抱き、牛飼いに挑んだ。明治22年頃の話という。

伏次郎氏は養育館の乳牛を知っていたのだろうか?彼に酪農を助言したのは、むかし松方氏に養育館創立を促した、日田代官所の典医・諌山菽村氏だ。

諌山氏はのちに「咸宜園」(儒学者・広瀬淡窓氏の私塾)を再興、その塾頭を務める人物で、伏次郎氏は諌山を師と仰ぐ間柄。ここに日田の先駆者の想いが引き継がれ、再始動の感がある。そして明治29年、正式に岩尾牧場が発足した。

◆後年の概況と「岩尾牛乳」の終焉

大正期には有畜農業・生産品目の多角化を期し、水田を止めて野菜栽培に注力。岩尾牧場は酪農とともに、園芸作物の普及にも貢献。ご子息・岩尾精一氏は政治の道へ進み(第四代・日田市長)、牧場は甥の彦一氏が受け継いだ。

「岩尾牛乳」の自家処理・直売は家業の規模で長く続いたが、昭和50年代中期に廃業され、銘柄は消滅。掲載は要冷蔵標示のみ、最晩年に流通の一合瓶装と思う。なお当地に残っていた牛舎やミルクプラント建屋は、平成26年頃、ついに解体されたようだ。

― 参考情報 ―
先人の軌跡 酪農経営の先駆者 岩尾伏次郎 (Viento〜おおいたの風)
岩尾牧場の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)


創業> 明治29年
大12> 岩尾伏次郎/大分県日田郡日田町南豆田
昭09> 同上/大分県日田郡日田町
昭31> 岩尾牧場・林彦一/大分県日田市立田
昭34〜44> 岩尾牧場/同上
昭46〜48> 同上/大分県日田市南豆田531
昭50〜53> 同上/大分県日田市丸の内町9
廃業> 昭和50年代中期
電話帳掲載・公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、[大分県商工人名録]・牛乳新聞社「大日本牛乳史」・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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